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旅たび倶楽部 第21回部録

2014.05.01.17:45

隅田川畔・祭りと史跡散歩 両国~築地・明石町

2014年4月26日(日)晴れ


参加者: 岩瀬 翠、野崎芳信、柳沢道生

 『両国にぎわい祭り』が開催されたこの日、両国に集まり「ぶらり両国街歩きツアー」に参加、さらに両国界隈の史跡を散策。東京水辺ラインに乗船、両国~浅草~明石町のミニ船旅。明治初年から外国人居留地であった築地・明石町を巡り築地本願寺へ、締めに築地場外市場で寿司をいただいた。


集合写真: 東京水辺ライン、浅草二天門乗船場付近、東武スカイツリーラインの特急電車・りょうもう号を背景に。

b0426-0 水辺ライン集合


1.ぶらり両国街歩きツアー 北コース・前半
 朝10時半過ぎ、JR両国駅西口に集合。駅前から南に伸びる国技館通りは、すでに歩行者天国となっていた。本部受付で街歩きツアーに申込み、北コース11時出発。それまで、チャンコ鍋などの出店が並んだ会場を冷やかす。
 本部前に集合、一行は我々を含む15人。参加料500円を支払い、レシーバーを受け取る。ガイドの鈴木さんの声がよく通る。まず、国技館通りすぐ西側の陸奥(みちのく)部屋、次いで国技館向かいの百本杭跡から御蔵橋跡の案内板を巡る。
 信号を渡って安田庭園へ。常陸国笠間藩の藩主本庄宗資により元禄年間(1688-1703)築造と伝わる汐入回遊式庭園。明治維新後安田善次郎所有となり、大正11年(1922)東京市に寄贈、戦後墨田区に移管された。庭園の北側に安田財閥が寄贈した両国公会堂、今は使われていないという。もったいないとの声しきり。
 北口から出て、すぐ北側の横網公園へ。元被服廠跡地、関東大震災で3万8千人の犠牲者が出た場所だ。東京大空襲の犠牲者を合せて祀る慰霊堂は耐震改修工事中であった。園内に陳列されていた震災被害の残骸が痛々しい。自動車は日本の自動車登録第1号、銀座明治屋のトラックだったという。
 

b0426-1 国技館通り-国技館
    両国にぎわい祭りメイン会場、国技館通り         両国にぎわい祭りサブ会場の一つ、両国国技館

b0426-2 御蔵橋-安田庭園
   街歩きツアー・御蔵橋跡で、ガイドの鈴木さん        安田庭園と両国公会堂、東京スカイツリー

b0426-3 横網公園n
      横網公園、耐震工事中の慰霊堂             横網公園、被災したトラックの残骸


2.ぶらり両国街歩きツアー 北コース・後半
 横網公園北口を出て、蔵前橋通りを渡り徒歩数分、徳之山稲荷神社に着く。ここは明暦大火後、本所築地(ついぢ)奉行に任ぜられ、当地の町割りの基礎を造った徳山五兵衛の屋敷跡、いわば墨田区北部の開拓者の史跡である。そこから路地を南に10分ほど歩く。元横綱・北勝海が師匠の八角部屋、元関脇・ソルトシェーカー水戸泉が師匠の錦戸部屋が並び建っている。部屋の傍らにマワシが何本も干してあった。洗わずに、干すだけ…と説明されて、ご婦人方、少し眉をひそめる。
 一筋南に歩くと通りに出る。愛称・北斎通り、電線は地下化され、街頭には北斎の絵と解説がある。東に歩くと東あられ本舗の店舗、その傍らに葛飾北斎生誕地の案内板。89年の生涯で93回転居したという北斎、その大半はこの界隈だったようだ。説明を聞いて店内へ。アラレの試食、お土産のお買いもの。
 通りの向かいにこんもりとした木々が見える。野見宿祢神社、相撲の始祖を祀った神社。境内には歴代横綱の名を刻した石碑が立つ。存命者は赤字、物故者は白字で塗られていた。新横綱鶴竜は、五月場所前にここで土俵入りを奉納するとのこと。通りを西に歩けば緑町公園、その傍らにも案内板、津軽の太鼓・津軽藩上屋敷跡。当地にあった弘前藩・津軽家の上屋敷には火見櫓があり、通常板木を用いた緊急時の通報に太鼓を用い、それが本所七不思議に数えられたという。
 さらに西に進む。やがて目の前に江戸東京博物館、巨大なゲタ状の建物が見えてくる。その前の交差点を渡った所にまた案内板、置いてけ堀・御竹蔵跡。幕府の資材置場付近で起こった怪異現象が、本所七不思議の一つとなったという。そこから江戸消防保存会が造立した、徳川家康像を右に見ながら江戸東京博物館内に。ここで1時間半近くのツアーがお開きとなった。

b0426-4 徳之山稲荷-東あられ
     本所築地奉行屋敷跡、徳之山稲荷神社           東あられ本舗、葛飾北斎生誕地

b0426-5 横綱碑-江戸東京博
       野見宿祢神社、歴代横綱の碑         両国にぎわい祭り、サブ会場の一つ・江戸東京博物館


3.両国界隈街歩き 南部編・前半
 江戸東京博物館から、総武線のガードをくぐり、JR両国駅東口へ。ちゃんこ料理・安美、店頭にいたオジサンはお店の人で案内してくれる。本場所は呼出し、ちゃんこ屋は呼込み…。相撲のメッカ両国に、ちゃんこの店は無論多いが、ランチメニューがある店は少ない。ここ安美はその一つ、国技館通りにも出店していた。海鮮ちゃんこ、三色ちゃんこ、二色ちゃんこ…いずれも税込み1300円。二色ちゃんこは鶏つくねと鰯のつみれ、三色はそれに海老しんじょ。この店のオーナーは相撲巧者・安美錦、伊勢ヶ濱部屋直伝のちゃんこ料理も旨かった。
 両国にぎわい祭りのメイン会場・国技館通りを再び歩き、通りの南・サブ会場の一つ、回向院へ。明暦の大火・振袖火事の犠牲者を弔うために建立された。隣接する両国シティコア・旧日大講堂・旧両国国技館跡地の中庭では江戸大道芸の公演。旧両国国技館開設まで、大相撲は回向院で定期興業されていた。境内にはそれを記念した力塚が立つ。境内北側の鼠小僧次郎吉の墓へ。墓の削りかすが勝負事にご利益あるという言い伝え。削られ用の石・お前立ちを熱心に削る男一人・女二人、分けありか。隣には猫塚があった。鼠には猫、ということか。
 路地を南に数分歩けば井筒部屋、その南にやや行けば出羽海部屋。すぐ南には首都高7号・小松川線の高架、その下の川が竪川(たてかわ)である。

b0426-6 ちゃんこ安美
     ちゃんこ料理安美店頭、呼込みのオジサン           ちゃんこ料理安美・二色ちゃんこ

b0426-7 回向院
     両国シティコア中庭、大道芸・蝦蟇の油売り          回向院境内、鼠小僧次郎吉の墓前にて
 

4.両国界隈街歩き 南部編・後半
 川を渡れば江島杉山神社がある。両国にぎわい祭り・サブ会場の一つ。江戸初期、幼くして失明した杉山和一が、江ノ島弁財天の洞窟に参篭、そのご利益で管鍼術を創始し、盲人教育の先駆者となった。当地に拝領した屋敷内に江ノ島弁財天を勧請、当社を創建。社殿では、平家琵琶など社宝のご開帳。境内には江ノ島を模した洞窟があった。ここにも参詣。竪川を北に渡り、やや行けば春日野部屋。どの部屋の前にも自転車が沢山あった。お相撲さんの日常の足なのだろう。
 そこから路地を東に歩けば、吉良邸跡・約2550坪あった屋敷の一部、首洗い井戸付近が本所松坂町公園として整備・公開されている。そのすぐ北に時津風部屋がある。相撲写真資料館が併設されている工藤写真館もご近所だが、資料館は今日は「や」。すぐ北側は京葉道路。道路沿いに相撲関連商品を扱う店が点在している。その一つ、相撲グッズを扱う高はしへ。元々は布団屋で、力士用布団・座布団を扱っていたという。粋な商品が並んだ店内を見物。
 総武線のガードをくぐり、また江戸東京博物館へ。ここでスタンプラリーの景品交換。西に進んで隅田川川畔、東京水辺ラインの両国乗船場へ。ここでしばし待ち乗船。浅草二天門乗船場経由で、聖路加タワー・明石町乗船場に向かう。

b0426-8 江島杉山神社-春日野部屋
       江島杉山神社、江ノ島を模した洞窟           春日野部屋、玄関脇に自転車が並ぶ

b0426-9 吉良邸跡-高はし
       吉良上野介屋敷跡、本所松坂町公園          相撲グッズの店・高はし、粋な商品の数々

b0426-10 東京水辺ライン
        東京水辺ライン、両国乗船場             東京水辺ラインの船上から、吾妻橋付近


5.築地・明石町街歩き 前半
 隅田川を下り、高層建築と昔ながらの景観が並ぶ佃島を眺め、進めば行く手に聖路加タワーが見えてくる。やがて船はその真下にある聖路加タワー・明石町乗船場に着く。ここで下船、聖路加タワーの西隣・銀座クレストンホテルの傍らを通り、聖路加国際病院の南の並木道を歩けばすぐにタイムドーム明石がある。
 中央区の教育・福祉関連施設が集約されたビルに、プラネタリウムと郷土資料館が併設された施設が中央区郷土天文館・愛称タイムドーム明石である。ここで郷土資料館を見学。日本橋・築地・銀座界隈の歴史、特に明治初期に外国人居留地であった明石町の展示資料は興味深かった。
 タイムドームを出て、並木道を西に歩くと交差点、その中程に石碑が二つ並ぶ。慶應義塾発祥の地と蘭学事始めの碑。慶應義塾は慶應4年(1868)、中津藩士福沢諭吉が藩命により中津藩邸で開いた蘭学塾に由来する。江戸蘭学は中津藩藩医であった前野良沢らが中津藩邸でターヘルアナトミアを翻訳、解体新書を著したことに始まる。それを記念し、中津藩邸跡に二つの碑が立てられた。
 交差点北側の通りの東が聖路加国際病院、西が聖路加看護大学だ。大学構内に建つ洋館がトイスラー館、聖路加国際病院の宣教師館として昭和8年(1933)築、平成10年(1998)当地に移築された。大学構内の小路の傍らに石碑がある。立教学院発祥地の碑、明治7年(1874)立教学校として当地で創立された。
 交差点から北に1ブロック歩く。左側に立教女学院築地居留地校舎跡記念碑が立っている。次の交差点北西角には築地カトリック教会がある。聖堂は古代ギリシャ・ドーリア様式神殿風、関東大震災後の昭和2年(1927)築、東京都選定歴史建造物と中央区民文化財に指定されている。

b0426-11 慶應発祥碑-トイスラー館
     明石町・旧築地鉄砲洲、慶應義塾発祥地の碑       聖路加看護大学構内、トイスラー館

b0426-12 立教発祥碑-築地教会
      聖路加看護大学構内、立教学院発祥地の碑        明石町、築地カトリック教会・聖堂


6.築地・明石町街歩き 後半
 築地カトリック教会聖堂の前に暁星学園発祥地がある。明治21年(1888)当地で開校、同年麹町に移転した。明治6年(1873) キリシタン禁教撤廃、翌年東京初のカトリック教会として築地教会が明石町に落成。東京以北の布教の中心となり、一帯に多くのキリスト教系学校が創設された。1ブロック東の通りには、明治学院発祥地、女子聖学院発祥地、青山学院記念の地の碑があり、1ブロック北側交差点付近には雙葉学園発祥地の碑がある。
 今回はこれらの碑めぐりは割愛させていただき、交差点を渡る。中央区立明石小学校、関東大震災後の復興小学校として建てられた昭和モダン様式の校舎、その手前には築地外国人居留地跡の碑と赤レンガ塀・ガス燈の遺構がある。その北側には東京中学校・現関東学院大学発祥地の碑がある。
 交差点の西、聖路加看護大学北側の道を1ブロック歩き、南に進めば東京都の旧跡・浅野匠頭屋敷跡の碑がある。両国で吉良邸跡を見た。ご縁を感ずる。その南には芥川龍之介誕生の地の案内板、さらにその東には女子学院発祥地の碑がある。学校発祥の地に留まらず、史跡碑の密度の高さは国内トップクラスだろう。
 暗渠化された川の上に設置された築地川公園を通って、築地本願寺へ。古代インド・天竺様式建築は東京帝大教授であった伊東忠太の作品、両国横網公園の震災慰霊堂も彼の作品だった。これもご縁だろうか。
 築地本願寺から築地4丁目交差点を超え、築地場外市場へ。夕暮れも近く、一般の商店はすでに閉まり、寿司屋の看板の明かりだけが目立つ。ここで、すしざんまい本店に入り夕食。中身の濃い街歩きの一日の締めとした。

b0426-13 旧浅野邸-芥川生誕碑
     明石町、浅野匠頭屋敷跡の碑・東京都旧跡          明石町、芥川龍之介生誕地の案内板

b0426-14 本願寺-すしざんまい
     築地本願寺、古代インド・天竺様式の本堂          すしざんまい本店、特選すしざんまい


所感
 本所と明石町、共通項は築地だ。「ついぢ」と「つきじ」、読みは異なるが共に埋立地であった。本所・両国は江戸の街がほぼ灰燼に帰した明暦大火後の江戸の復興、そして新しい江戸文化と興業の拠点となった。築地・明石町は大名屋敷から、外国人居留地へ。維新後の東京において文明開花の発信地となった。
 その違いは、東京水辺ラインの聖路加タワー・明石町乗船場に足を踏み下ろした時に気づいた。緑の分布が異なるのだ。本所・両国では民家や商店・ビルの広がりの中、公園と寺社に緑が集約されていた。築地・明石町は通りそのものが緑の街路樹で覆われていた。和風と洋風、と言ってよいのか、戸惑うことだが。
 共通項と言えば、数多くの史跡に、ていねいに案内板や碑が立てられていたことである。遠来の人たちでもその地の歴史の一部を、たやすく共有できる。それから、本所・両国をこまめに案内してくれたガイドさんにも、タイムドーム明石の学術的だが分かりやすい展示にも、好感がもてた。街歩き好きには願ってもない地域であった。                  (幹事・柳沢記)





 





  
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