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旅たび倶楽部 第7回部録

2012.05.03.07:59

2012年4月22日(日) 小雨後曇り

三県一都、水辺の県境と史跡散策
  千葉・茨城、千葉・東京、東京・埼玉県の境をめぐる

参加者: 野崎芳信、柳沢道生、弓 祐美(取手市から参加)

写真は茨城県取手市小堀(おおほり)~取手市取手を結ぶ、小堀渡船船内にて
 左・野崎、右・柳沢

b0422-1 船内

1.成田線湖北駅~我孫子市中峠(なかびょう)
 JR常磐線~成田線快速成田行きの車内で野崎さんと合流。成田線湖北駅で下車。今週も週末は天気がすぐれない。こんな気候が何週続いたことだろう。
 駅前通りを北へ、このあたりは千葉県我孫子市中峠、「あびこ」もそれなりに難読だが、中峠は峠と書いて「びょう」と読む難読地名だ。小高い地形を土地の言葉で「ひよ」といったのが「びょう」に転訛し、検地の際にそれに「峠」の字をあてたようだ。
 徒歩5分ほどで、龍泉寺。創建は不詳だが、弘法大師から始まるとも伝わる真言宗豊山派の古刹。江戸時代には近郷14ヶ寺を管掌した。本堂は、昭和30年(1955)に上野寛永寺の子院・凌雲院を移築したもの。新四国相馬霊場76番礼所である。ここは江戸時代、下総国相馬郡中峠村であった。ちなみに、現在の福島県の相馬の地名は、当地一帯を本拠とした千葉氏の一族・相馬氏が、鎌倉時代に陸奥国行方(なめかた)郡・現福島県相馬地方に地頭として赴いたことに由来する。こちらが、相馬の本家であった。
 龍泉寺西側の古利根通りを北に歩く。徒歩数分、道の左右に緑に覆われた塚らしきもの。中峠北古墳群、埴輪なども出土している。駅の近くには中峠南古墳群、ここの西北には中峠上古墳群と、一帯には多くの古墳が残ってる。利根川旧本流と手賀沼の間の陸地帯、古代から人が生活するのに適していた土地なのだ。
 徒歩約5分、路傍に杭状の案内板、その脇に石碑、追分道標だ。江戸後期作と推定される石の表面は摩耗して読めない。案内によれば、東は布佐・木下、西は布佐、南は中峠村、北は足尾山とある。この道も昔ながらのルートであることが分かる。
 さらに、5分ほど歩けば、畑の先に小高い塚。順道塚、天正18年(1590)小田原落城後、その支城の一つであった芝原城も落城し、城代の林伊賀守道順がこの地で自刃したという。芝原城は中峠城ともいい、ここから徒歩10分ほど西、古利根沼の南側、波除不動尊近くに城跡が残っている。中峠北古墳群もそうだったが、ここにも案内板は見当たらない。知らなければ、素通りしてしまうだろう。もったいないことである。
 さらに北に歩くと周囲は竹林と雑木林に変わる。地形もやや高くなったようだ。これが「ひよ」なのか。右手の小途に入ると、行く手に社が見えてくる。足尾山神社、平安末期の文治年間(1185-89)に創建されたと伝わる古社だ。社名からか、足の病に効能があるとされ、昔は銅や鉄製の草履が奉納されたという。今は、お社の横に、奉納された靴やサンダルが架かっていた。なかでも、松葉杖はどこか生々しい。

b0422-2 古墳・塚
  中峠北古墳群、古利根通りの両側に、7基の円墳が残る      道順塚、林伊賀守道順は自刃後この塚に埋葬されたと伝わる

b0422-3 足尾山神社 
    足尾山神社、筑波山麓の足尾山神社から勘請された        奉納された履物など、よく見れば2本の松葉杖は別物だ

2.取手市小堀(おおほり)~小堀渡船 
 古利根通りに戻り、また北に歩く。数分進むと、左手の木々の間に水面が見える。古利根沼である。かつては利根川本流であった。明治44年(1911)~大正9年(1920)の河川改修で、本流は北側・現在の流路となったが、県境は変更されなかった。
 前方に土手が見えてくる。現在の利根川本流の堤防だ。古利根通りから左に、堤防上の県道170号に至る側道がある。分岐のすぐ先が千葉・茨城県境のはずだ。地図を見ながら、標識らしきものを探すが見あたらない。大体の見当で写真を撮る。側道を西に進めば水防資材庫があり、扉に取手市消防本部・取手市消防団と書かれていた。これで取手市、すなわち茨城県に入ったことが確認できたわけだ。
 ここの地名は取手市小堀と書いて「おおほり」と読ませる。これも第一級の難読地名。かつては、利根川の河岸・水運の拠点として栄えたという。やや行けば古利根沼の北端が見える。東、すなわち下流側の北端である。水面は周囲から相当低いことがわかる。
 堤防に沿って10分ほど歩き、左手への道を小堀の集落に入る。行く手のお寺は常圓(じょうえん)寺、真言宗豊山派。寛文2年(1662)創建。開祖の常圓は元千葉重胤の家臣椎名右京亮。北条側とみなされ没落した千葉氏家伝の不動明王をこの寺の本尊とした。千葉氏家伝の仏像が今は茨城県の寺に…。もっとも、その頃ここは下総国相馬郡だったのだ。新四国相馬霊場9番礼所、境内には多くの石仏、石碑が残されていた。
 堤防に戻ると「小堀の渡し」の看板、案内に従ってセイタカアワダチソウの群生する、だだっ広い河川敷を歩く。小さな小屋が小堀の渡し・小堀乗場の待合所だ。壁に運行時間・料金・注意事項などが掲示され、「取手市役所水とみどりの課」とあった。
 船着き場に行ってみると小さな渡船が係留されていた。しばらくして、船長さんの「どうぞ」の声で乗船、料金は大人100円、小さなキャビンは10人ほどで満員だろう。赤い救命胴衣を装着し、いざ出港。結局、乗客は我々2人のみであった。

b0422-4 県境-沼北端
  前方に利根川堤防、自販機の左が茨城県、右が千葉県と推定         古利根沼・東側北端、水面はかなり低い

b0422-5 石仏-渡船・小堀
        常圓寺、境内の素朴な石仏群                     小堀の渡し、小堀の船着き場と渡船

3.水戸街道取手宿
 利根川北岸に広がる取手緑地運動公園、渡船はその駐車場付近の船着き場に立ち寄る。ここでも乗船客はない。今日は日曜日だからだろうか。利根川改修で飛地となった小堀地区との連絡のため設置された渡船。現在はコミュニティバスが取手駅~小堀地区で運行されている。そちらの方が便利なのだろう。群馬県~埼玉県の赤岩渡船、群馬県の島村渡船とともに、利根川で3ヶ所だけ残った渡船の一つ。しかし、島村渡船は昨年の台風で船着き場が破損し、運休中と聞く。小堀渡船にエールを送りたい。
 JR常磐線利根川鉄橋の東側、小堀の渡し・ふれあい桟橋に着く。JR鉄橋の西側には国道6号・現水戸街道が通る大利根橋、かつてそこには水戸街道の取手の渡しがあった。取手緑地運動公園西端を、堤防へと歩く。堤防の上で手を振っているのは、弓さんだ。ここで合流。堤防上の無料レンタサイクル事務所の管理人さんとお話していたとのこと。管理人さんも、なぜ小堀を「おおほり」と読むのか、ご存知なかったようだ。
 堤防を降り、旧水戸街道を東に歩き、創業250年の老舗蕎麦店・伊勢利へ。ここで昼食、三色蕎麦をいただく。今日の三色はゴマ、オカカ、海苔がトッピングされていた。
 昼食の後、東徒歩スグの田中酒造店へ。明暦元年(1655)創業、350余年の歴史ある蔵元だ。明治14年(1884)、現牛久市での陸軍近衛砲兵の演習に際して、明治天皇が行幸され、水を望まれてお出しした当店の水を気に入られ、水の御用を承り、下賜されたのが「君萬代」の銘柄であるという。店内の二階を「屋根裏美術館」と称して今、日本画を展示しているとのこと。上って見れば屋根裏には似つかわしくない、雅な雰囲気であった。店を出ると、雨はあがっていた。小雨後曇り、既視感(デジャヴ)。
 旧水戸街道を東に5分ほど歩くと、「取手宿本陣」の案内。代々取手宿の名主を勤め、水戸徳川家から本陣に指定された染野家住宅である。茅葺の主屋は寛政6年(1794)の火災の翌年に、表門は文化2年(1805)に再建。明治初期には郵便局となり、その遺構も残る。取手市の史跡である。室内を見終わった後「上に歌碑がありますよ」と声をかけられ、庭先の階段を登ると水戸藩主徳川斉昭が、天保11年(1840)正月、取手の渡しを過ぎ、染谷家で休息した折に詠んだ歌二首が歌碑に刻されていた。風雅である。
 旧水戸街道を西に戻り、田中酒造店の先の路地を北に折れると、すぐに石段、上には重厚な山門が見える。長禅寺、臨済宗妙心寺派。承平元年(931)、平将門が祈願寺として創建したと伝わる古刹である。慶安2年(1649)、徳川家光より寺領五石三斗を賜る朱印状を受け、以後明治維新まで歴代将軍より朱印状を受けた。新四国相馬霊場八十八ヶ所の発願・結願寺でもある。境内の三世堂は、往路・復路が途中で交差せずに堂内を一巡できる「さざえ堂様式」で、県の文化財に指定されている。その前の八重桜がまだ美しい。参拝の後、細い石段を降り、近くの取手駅に向かう。

b0422-6 渡船・桟橋-三色そば
   JR常磐線茅根川鉄橋の傍に小堀渡船・ふれあい桟橋         伊勢利の三色蕎麦、トッピングは季節により変わるようだ

b0422-7 井戸-本陣
 明治天皇が愛でたという田中酒造店の水・非常用水とあった        取手宿本陣・染谷家、大きな玄関・式台が格式を表す

b0422-8 長禅寺
       長禅寺・さざえ堂様式の三世堂と八重桜              長禅寺境内の大黒天、周囲には奉納されたミニ大黒

4.水戸街道松戸宿
 常磐線快速電車に乗り、松戸駅で下車。東口に出ている「戸定(とじょう)歴史公園」の案内に沿って南下、徒歩10分余りにある緩い坂道を登ると、寺院山門風の茅葺き門が見えてくる。水戸藩十一代・最後の藩主、徳川昭武が後半生を過ごした戸定邸である。明治17年(1884)築、明治30年代には昭武の実兄・江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が何度か訪れ、共に趣味の釣り、狩猟、写真撮影などを楽しんだという。建物は明治前期の上流邸宅の姿を伝えていることから国の重要文化財に、芝生を使い洋風を取り入れた庭園は県の名勝に、また関東の富士見百景にも指定されている。
 邸内を一通り見学し、隣接する戸定歴史館に入る。流石に写真が趣味であった元将軍と元藩主の兄弟、家族や親族はもとより使用人までのポートレートが揃っていた。なかでも女性の写真には目をひかれた。古典的、文明開化風、近代的とスタイルは様々だが、いずれも別嬪である。違った意味で流石だと思った。歴史館を出ると、そのまま戸定歴史公園へ行ける。日本の歴史公園百選だけあって、園内は美しく整備されている。南隣に明治42年(1909)、千葉県立園芸専門学校として開校し、100余年の歴史を誇る千葉大学園芸学部があることと関係があるのだろうか。遅咲きの桜を見つけた。今年は桜を観る機会があまりなかっただけに、少し得した気分だ。
 坂を下りて、左手・西に歩く。JR常磐線のガードをくぐり、数分歩くと右手に松戸神社がある。寛永3年(1626)創建、水戸道中の松戸宿に鎮座、松戸総鎮守である。水戸光圀が立寄り、白鷺に鷹を放つと鷹は怖気づき、弓矢で射ろうとしたら矢が折れた、との言い伝えがある。元は御獄社と呼ばれ、明治15年(1882)に松戸神社と改称された。境内には秋葉神社、水神社、松尾神社など多くの神様が祀られていた。
 松戸神社西側が旧水戸街道、それを西に横切る信号を渡った左側に松戸宿本陣跡のプレートがある。その先は江戸川の堤防、明治末期まで、対岸の東京府南葛飾郡金町村との間に、松戸の渡しが設けられていた。明治44年(1911)、初代葛飾橋・木橋が架橋されたのもこの地点である。江戸川の堤防に上る。下流、南西方向に現在の葛飾橋が見える。距離は600mほど。夕刻の堤防上を葛飾橋に向かって歩く。

b0422-9 戸定邸
        茅葺の門が趣を深める、戸定邸                 戸定歴史公園、他の景色もよかったが、やっぱり桜

b0422-10 松戸神社-葛飾橋
        松戸の総鎮守、松戸神社の社殿                  旧松戸宿近くの江戸川堤防上から葛飾橋を望む

5.葛飾橋から三郷市へ
 旧松戸宿付近の江戸川は、大正時代の河川改修で、西側の河川敷が拡張された。これで、松戸の対岸、旧金町村大向の集落が消滅し、葛飾橋も移設・架けかえられた。二代目葛飾橋・鉄橋が開通したのは昭和2年(1927)のこと。現在の葛飾橋は、昭和47年(1972)に開通した三代目・鋼製トラス橋である。さらに、平成17年(2005)、東京外かく環状道路・国道298号三郷~松戸間開通に伴い、西側に葛飾大橋が架橋された。
 葛飾橋を歩き始める。地図を見ると、東京都と千葉県の境は橋の真ん中でも、現在の流路の中央でもない。かなり千葉寄り、千葉側の河川敷と流路の境あたりだ。古地図を見ると、どうやら大正の河川改修以前の流路中央のようだ。気にしながら、歩を進めると、ほぼ想定の地点に「東京都」の標識、少し先に逆向きに「千葉県」の標識。と県境はその間のどこかにあるのだろう。ともかく、これで東京都葛飾区に入ったのだ。
 葛飾橋を渡り終え、今度は東京都葛飾区東金町8丁目の江戸川の堤防上を北東・上流に向かって歩く。事前の調査では、金町ポンプ場付近に金町関所跡碑があるとのことだった。探してみたがよく分からない。堤防はほぼ北を向き、西側には葛飾区立金町運動公園がある。さらにその西側には都立水元公園が広がっている。
 金町運動公園の北端が東京都と埼玉県の境だ。堤防上の看板を見ると、柴又帝釈天までの案内図・外れ。河川管理境界・惜しい。地面を見ると白い敷石に囲まれたプレート「幸手三郷自転車道・埼玉県」とある。金町運動公園の北端とも一致している。ビンゴ、ここが都県境なのだ。10数分、橋と堤防上のみの東京散歩、初めてのことだ。
 埼玉県三郷市高洲(たかす)6丁目の堤防上を数分歩き、一般道に降りて西に歩く。数分で大雄寺(だいおうじ)に着く。寺の手前に小向の渡しの案内板があった。事前の調査では知らなかった物件だ、ラッキー。旧葛飾橋と同位置にあった松戸の渡し、その北側にあったのが小向の渡しで、金町村の小向集落・この一帯と対岸の松戸宿・納屋河岸を結んでいた。案内板のタイトルで、昭和中期まで運行されていたことも分かった。
 大雄寺は日蓮宗の寺院、三郷七福神のうち八木郷・戸ヶ崎巡りの大黒天である。室町時代末期の開創で、真間山未下総国松戸大雄寺と称したと伝わる。江戸時代に太日(ふとい・おおい)川・現江戸川の掘り替えで移転、更に大正、昭和と移転した後、現在地に安住した。河川改修の影響を身をもって体験した歴史がある。境内の隅に白い鶏が飼われていた。小屋に黒猫の絵があったのは、猫除けのまじないか。
 寺の南側に神社があった。三輪神社、さほど大きくはないが、境内の銀杏の古木は歴史の古さを感じさせる大きさだ。古地図を見ると明治末期から、この位置に社の記号が描かれ、その北側には池らしきものがある。昭和19年(1944)の地図には池はない。昭和40年(1965)の地図には、そこに寺院の記号が描かれている。今の大雄寺は池の跡地に建立されたことになる。とすれば、やはり水にご縁の深いお寺さんなのだ。
 徒歩5分ほどの、高洲大入(おおいり)バス停の手前で、三郷駅行きの東武バスを発見し、走ってようやくそのバスに乗れた。最後が一番シンドかったが、この一汗で、三郷駅前の「居酒屋やっちゃば」での宴が一層価値あるものとなった。

b0422-11 千葉県境-埼玉県境
   葛飾橋上の東京都境標識・奥に葛飾大橋、千葉県境標識          堤防上の埼玉県境プレート、左奥が金町運動公園

b0422-12 小向の渡し-大雄寺n
     大雄寺手前に立つ「小向の渡し」の案内板                       三郷七福神の大黒天・大雄寺

所感:  今回は水辺の県境というテーマで、前半は千葉・茨城県境を、後半は千葉・東京都県境および東京・埼玉都県境を巡った。コアになった都市は前半が茨城県取手市、後半が千葉県松戸市、いずれも旧水戸街道の有力な宿場町であった。ともに史跡に、水戸徳川家の面影が色濃く残っていたことは興味深かった。
 河川でいえば、前半が利根川、後半が江戸川である。利根川は河川改修で大きく流路を変え、取手市小堀という飛地が発生、それが小堀の渡しを生んだ。ただし、この飛地は周囲を全て異なる行政単位で囲まれているという意味では、純粋な飛地とは言い難い。蛇行した川が流路を変えたとき、取り残されて生ずる湖などを河跡湖という。こういう言い方があるかは定かではないが、この例にならって河跡飛地といえば分かりやすい。
 江戸川の河川改修は、今回の範囲では利根川ほどではなかった。せいぜい、葛飾橋上で確認した現在の流路と都県境のズレくらいか。しかし、個別に見れば、旧松戸宿から移転してきたと伝わる三郷市の大雄寺の経緯などには、その影響がうかがえた。
 今回の旅は、いわば河川をタテ糸、街道をヨコ糸として、時が紡いだ織物。そこには境という人為的な模様も織込まれていた、そんな織物を鑑賞した旅、といえるのではないか。また、前回の旅で訪れた、練馬区西大泉6丁目が、東京23区の西北端にあたるのに対し、今回通った葛飾区東金町8丁目は、東京23区の東北端という、対照的な位置にあった。さらに「10数分間・橋と堤防上のみの東京散歩」というオマケまで付いた。こんなコースを楽しむのも、「境の旅」ならではかもしれない。         (幹事・柳沢記)
 




 
 
 

 
 
 

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