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旅たび倶楽部 第3回部会・部録

2011.11.16.11:36

2011年11月12日(土)

秋たけなわの飯能・青梅・福生を歩く
  埼玉県と東京都の境をめぐる

参加者: 柳沢道生、飯降昌吾、岩瀬 翠、野崎芳信、弓 祐美

 写真は埼玉県飯能市(旧高麗郡)と東京都青梅市(旧西多摩郡)を結ぶ両郡橋にて。
 出席者記載順。境界は野崎さんと弓さんの間にあり、左が飯能市下畑(旧高麗郡南高麗村)、右が青梅市富岡(旧西多摩郡小曾木村)である。

b1112両郡橋n

集合: 午前11時、西武池袋線飯能駅北口

1.飯能市内
 古い商家や蔵が残る飯能市内を北東に徒歩約10分、観音寺(飯能市山手町5-47)に向かう。観音寺は真言宗、山号は般若山。武蔵野七福神の一つ、寿老人。武蔵野33観音霊場の第24番札所。鐘楼の梵鐘は戦時中に供出され、張子の白象がおかれている。この寺院は慶應4年(1868)、旧幕軍と官軍とが戦った飯能戦争の史跡でもある。
 観音寺から徒歩約5分、飯能市郷土館(飯能市飯能258-1)を見学。おりしも「飯能戦争特別展」が開催中。大砲や銃、軍服などの実物や、古文書、飯能戦争にいたる経緯を解説したパネルなどが展示されていた。

・飯能戦争: 慶應4年、彰義隊で天野八郎と対立した幕臣・渋沢成一郎(栄一の従兄)は、彰義隊離脱者を集め振武隊を結成、田無の総持寺(現西東京市)を本陣とした。
 同年5月15日、上野戦争が始まると、箱根ヶ崎にいた振武隊は上野に向うが、途中で彰義隊敗北の報を受け、田無に戻り彰義隊の敗残兵を吸収した。
 同年5月18日、1500名の振武隊は飯能に移動、能仁寺を本陣として、観音寺の他、智観寺、心応寺などの寺院に立て籠った。5月23日早朝、3500名の官軍が襲撃し、飯能戦争が勃発する。数時間で官軍が勝利し、観音寺など殆どの寺が焼失した。渋沢成一郎は密かに江戸に戻り、榎本武揚の艦隊に合流、箱館まで転戦した。

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     店蔵絹甚(飯能市本町・飯能市指定有形文化財)                     般若山観音寺本堂

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         観音寺鐘楼に置かれた白い象                          飯能市郷土資料館

2.旧南高麗村・飯能市下畑の茅葺農家
 飯能市郷土資料館近くの「天覧山下」バス停から、国際興業バス・南高麗経由間野黒指(まのくろさし)行に乗り約8分、小さな峠を越えて「下畑」バス停で下車する。長閑な秋の農村風景が広がる。ふと見ると、都バスの停留所標識が立っている。都バスの路線・梅74甲乙系統の一部が埼玉県飯能市を通っているという、珍しい区間でもある。
 田舎道を歩くこと5分ほど、成木川に架かる両郡橋に至る。ここでは荒川水系・入間川の支流・成木川が都県境で、境界は両郡橋上を通っている。橋には改めて来るとして、成木川沿いの道を東に歩く。素朴な木の鳥居の古社を過ぎると、飯能ハタ・ゴルフクラブ、横に茅葺の農家が見える。吉野家住宅、現住で主屋の傍らに茅葺の納屋もある。
 さらに数分歩くと道の奥に、もう一軒の茅葺農家、内野家住宅がある。やはり現住で、屋根の上に立派な瓦葺の煙出しが2基、かつて当地で盛んに営まれた養蚕に必要な換気のために設置されたと推測される。成木川の向こうに眼を向けると、深い緑の小高い岡が連なる。対岸は東京都なのだが、とてもそうは思えない。

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        飯能市下畑の茅葺農家・吉野家主屋              吉野家納屋、木に残った柿の実に、秋の深まりを感じる

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    内野家住宅、屋根の煙出し、庭先の松の枝も見事だ           成木川対岸を望む、手前は埼玉県、向うは東京都

3.岩蔵温泉界隈 (1)温泉郷と湯場橋
 両郡橋に戻り、集合写真を撮る。ここから東京都である。バス通り・小曾木街道を南西に歩く。先ほどと同様の秋の農村風景が続く。
 徒歩10数分、岩蔵温泉の看板が見えてくる。日本武尊が身を清めたと伝わり、古来「岩蔵みそぎの湯」として知られた。現在、4軒の湯宿が、東京都で唯一の温泉郷を形成している。道の左手に白壁の建物が見えてくる。蔵造りの老舗旅館・かわ村である。
 その先の信号・三叉路を左に入る。この道は岩蔵街道、成木川の支流・黒沢川に架かった湯場橋を渡る。小規模な温泉郷といった雰囲気を過ぎると、また田園風景。湯場橋から10数分ほど歩いたろうか。迷ったりしながら、ようやくお目当ての看板を見つけた。「古民家いろり」、ここで昼食をいただく。

b1112岩蔵
        岩蔵温泉 蔵造りの老舗旅館・かわ村                          岩蔵街道 湯場橋 

(2)食事処・古民家いろり
 古民家いろり(青梅市小曾木1-135)は、安政6年(1859)に埼玉県から当地に移築されたという農家を改装した食事処。座敷にあがり、めいめい食事を注文、男性陣は「ほうとう」1000円、女性陣は豆腐定食1500円。支度ができるまで庭を散策、足湯があった。五右衛門風呂を改造したもの。食事の前に一足温まろうか。
 ほうとうは、出汁の利いた味噌味に幅広の麺、これはいける。豆腐定食は、と見れば大きな竹製の器に豆腐、湯場、白あえなどなどのきれいな盛合わせ、さらにご飯、汁、一皿がつく。豆腐が主役の定食で1500円とはいかなるものか、と思っていたがこのチョイスはとても良い費用対効果だったといえよう。

b1112いろり-1
      古民家いろり・主屋 移築から150年余り                      五右衛門風呂を改造した足湯でほっこり
 
b1112いろり-2
      豆腐定食第1ラウンド、他にご飯・汁・一皿が付く                     昔の雰囲気そのままの座敷

(3)ギャラリーわあす 世界のサンタ展 
 昼食後、いろりのすぐ近く、野道の坂を登ったところにあるギャラリーわあす(青梅市小曾木1-3396)を覗いてみる。屋号は洋風だが、建物は茅葺の古民家である。ここで、「世界のサンタ展」が開催されていた。座敷いっぱいに各国のサンタ人形やグッズが展示されていた。誰かが「これは買えるの?」と聞いたら、ここの展示品はすべて販売用であり写真もOK。別室に貴重なコレクションがあり、そこは写真NGとのこと。
 なるほど、商業スペースと学術スペースか。一通り商業スペースを眺め、奥座敷の学術スペースへ。そこで女将、いや女館長が展示品の説明と、サンタクロース童話の形成過程を解説してくれた。トルコのセントニコラス伝説、各国の冬至祭りから、米国コカコーラ社の販促キャンペーンで今の姿が定着するまで、含蓄にとんだ有意義な講義であった。

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     茅葺屋根のギャラリーわあす サンタさんがお出迎え                ギャラリーわあす ここは商業スペース

(4)岩蔵御嶽神社、金峰山石倉院
 岩蔵街道を徒歩数分戻り、左手に分岐する新道の坂を上る。ミニ峠を越え下り坂を黒沢川に向かう。右側、小道の入口をその都度確認する。やや行って新道と別れ小路に入り、案内板を探すが見当たらない。このあたりに、地元の言葉で「うえんでぃ」という縄文住居遺跡があるはずだが。気がついたら、黒沢川を渡り、小曾木街道に出てしまった。戻って探索しようかとも思ったが、このあたりのバス便は1~2時間に1本だ。時間の制約もあり、やむなく街道を越え、小道を進み、岩蔵御嶽神社に向かう。
 街道から数分で岩蔵御嶽神社(青梅市小曾木5-3065)、日本武尊が東征の際、武器を保管したという伝承がある古社である。岩蔵温泉周辺を紹介したサイトに地名の由来となった岩蔵の大岩があるという。石段を登り社殿に参拝し、大岩を探す。それらしき岩はなくもないが、半ば土に埋もれ、見た目は普通の岩だった。
 坂を下り、隣に建つ金峰山石倉(せきぞう)院(青梅市小曾木5-3063)に行く。寛永年間(1624~44)に開山した曹洞宗の禅院で、奥多摩新四国八十八ヶ所霊場の第51番札所である。現在は無住で近くの民家が朱印を管理している。

b1112御岳神社 石倉禅院
       日本武尊説話が伝わる岩蔵御嶽神社                          金峰山石倉院

(5)東京炭鉱跡
 小曾木街道に戻り、西に数分歩くと「東京炭鉱」というバス停がある。東京炭鉱は昭和10年創業、炭質の余り良くない泥炭や亜炭を採掘していた。立坑もあり、最盛期は月産500トンを産出、主に近隣の家庭暖房・燃料に使われていた。戦後、石油やプロパンガス、都市ガスの普及で市場を失い、昭和35年に閉山した。
 ウェブの訪問記事では、一部に陥没抗はあるものの、遺構は特にないという。場所はバス停の南側、黒谷川沿いの小運動公園近くだったらしい。大して期待せずにそのあたりの原っぱを歩いて見るが、果して何もなかった。黒谷川岸に泥炭らしき黒いカタマリが見られた、との記事もあり、河原をまざまざと見るが、よくわからない。
 バス停に戻り、今度は標識を眺める。訪問記に西武バスの表記は「炭鉱」だが、都バスは「炭坑」だとあった。「炭鉱」は施設全体、「炭坑」はその中の坑道部分を指し、西武の表記が適切だ。さて、と確認すると都バスも「炭鉱」になっていた。ウェブを見て修正したのでは、と都バスの路線図を見ると、案の定こちらは「炭抗」のまま、それに「前」がつく。実害はなかろうが、小さな発見ではある。因みに帰宅後、東京都交通局の都バス運行情報サイトで停留所名を確認してみたら「東京炭坑前」、路線図と同じ表記であった。

b1112東京炭鉱
     東京炭鉱 このあたりにあったらしいが…何も発見できず    都バス・バス停は「炭鉱」     路線図は「炭坑」に「前」がつく

4.青梅市の昭和レトロ3館
 さて、都バスが来た。梅74甲・裏宿町(うらじゅくちょう)行だと思っていたら、梅74乙・河辺(かべ)駅北口行だった。どうやら私の勘違いらしい。「西分(にしわけ)二丁目に行きたい」と運転手さんに告げると「東青梅で降りれば近いよ」とのこと。「鉱」と「坑」の違いは無害だろうが、「甲」と「乙」の違いはそうはいかない。
 東青梅で降りて、旧青梅街道を西に歩く。10分ほどで西分二丁目、バス停を過ぎ少し行くと右手に昭和幻燈館(青梅市住江町9)がある。受付で、当館と赤塚不二夫会館(青梅市住江町66)、昭和レトロ商品博物館(青梅市住江町65)の共通券700円を購入。当館には青梅生まれの映画看板師、久保板観(ばんかん)氏が描いた映画看板や、レトロな街並み・建築のジオラマなどを展示している。
 旧青梅街道を横切り西に数分歩くと、赤塚不二夫会館と昭和レトロ商品博物館が並んでいる。赤塚不二夫会館は元気だった昭和の時代を代表する漫画家・赤塚不二夫の作品や掲載誌、関連グッズなどを展示。チビ太、イヤミ、ニャロメ、バカボンのパパ、レレレのオジサンなど、赤塚マンガのサブキャラたちが懐かしい。
 昭和レトロ商品博物館には、レトロなポスター・商品パッケージ、昔の生活道具や機器・玩具などが展示されていた。ゲタやメンコを見て昔の暮しや遊びの話に花が咲く。売店のケースにビン入りのコークがあった。世界のサンタ展でのお話で、意識下にインプットされていたのか、思わず購入してしまう。コカコーラをビンから飲んだのは今世紀初、いや平成改元以来初めてのことではなかろうか。

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    昭和幻燈館 エントランス 雪村いづみ主演映画のポスター          赤塚不二夫会館 赤塚マンガのキャラが勢ぞろい

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    昭和レトロ商品博物館 紙芝居自転車 作品は「黄金バット」        大正末期築の商家を改装した昭和レトロ商品博物館

5.福生へ
 そこここに、懐かしい映画看板が掲げられた青梅の街、昭和レトロ商品博物館から旧青梅街道を西に5分ほど歩く。夕暮れの中の青梅駅駅舎のたたずまいもまたレトロだ。ホームへ続く地下道の両側にもバンカン氏制作の映画看板が並ぶ。ホーム寄りの作品は高倉建主演の1999年作「鉄道員(ぽっぽや)」、その向かいには1956年作イタリア映画「鉄道員」。なかなか酒落が利いているなぁ。
 長~い10両編成の青梅線電車に乗り、約12分で福生駅、おっと半自動ドアだ。点灯した緑色のボタンをあわてて押して下車。普通の郊外駅、といった風情の福生駅前から東・米軍横田基地方向に歩く。基地の街を感じさせるものといえば、点在するエスニック料理店くらいだろうか。徒歩10数分で八高線踏切を越え、国道16号に出る。国道の東側には延々と横田基地が続く。基地の境界は鉄条網ではなく、ありふれたコンクリート塀なので、規模を別にすれば、基地はどこかの研究所かハイテク工場に見えなくもない。
 国道の西側にはポツリ、ポツリと商店の灯。「刺しゅう屋」のショーウインドウに並ぶ横文字の刺しゅうが「米軍御用達」をアピールしていた。左折の目印にと事前にチェックしていた雑貨屋が見つからぬまま、道を行き過ぎてしまう。
 軌道修正して、八高線東福生駅近辺に。夕食をと考えていたピザ・ステーキハウスを探すがこれも見当たらない。ドラッグストアで聞けば閉店したという。やむなく、近くのカレーハウス・アリババ(福生市武蔵野台1-3-9)に。店の雰囲気は多国籍カジュアル、ハイカラな町・福生の店である。カレーと飲物、ついでにアテもオーダー。10段階と微妙に辛さが調整できる欧風カレー(880円~)も、アテに頼んだみそポテトも、いい味を出していた。

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      青梅駅地下道 鉄道員(ぽっぽや)の映画看板              福生市内、国道16号 向いは米軍横田基地

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  国道16号沿い「刺しゅう屋」ショーウインドウの横文字刺しゅう      東福生 カレーハウス「アリババ」店内 多国籍カジュアル風

所感  
 辺境という言葉にロマンを感じる。単なる県境・都境なら日常、ひんぱんに通過しているが、「辺」という字に、鄙びた、中央から遠い、などの非日常性を感ずるからではないか。今回、東京都青梅市の北東端に、埼玉県飯能市から入った。東京の辺境、といったら地元の方に失礼かもしれないが、飯能市内を出たバスが、東京都に近づくにつれ、風景がどんどん鄙びていくのを見て、一層その感が強まった。
 しかし、現地を歩くと全く違った姿が見えてくる。旧南高麗村の茅葺農家の堂々たる佇まい。幕末から明治にかけて、日本の輸出産業の主力であった、生糸生産の一翼を担い、繁盛したのだろう。飯能市内に残された商家が「絹甚」であったこととも繋がる。
 岩蔵温泉周辺に残る日本武尊伝承、さらには残念ながら行けなかった縄文住居遺跡は、古代にはこの界隈が先進地帯であったことを暗示している。また、東京炭鉱が事業化した亜炭・泥炭も、推測ではあるが、古来知られていたのではないか。黒沢川の「黒」は、それを指しているのかも知れない。
 今回、めぐり歩いて残念に感じたのは、案内板の少なさだ。「古代東国の歴史は、今の辺境から始まった」などのコンセプトで統一された案内板を立てるだけでいい。長閑なウォーキングに付加価値が付き、この地への史跡めぐりファンを増やせるのではないか。
 福生では、ウェブで調べた戦後の雰囲気がただよっていそうな飲食店や雑貨屋に、行ってみたかったが、一つは閉店、もう一つの看板も見当たらなかった。昭和戦後もどんどん少なくなっていく。また、米軍基地と国道16号を隔てたコンクリート塀は、通貨の境でもある。あちらは米ドル、こちらは日本円の世界なのだ。その円は、自力でもないのに75円台/ドルの史上最高水準が続いたままである。塀の向こうの人々は、普段の飲食や買物にこっち側に来る気に、到底なれないのだろう。
                                        (幹事・柳沢記)


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