旅たび倶楽部 第45回部録

2017.02.28.12:42

世田谷区、野毛・喜多見古墳群を巡る

2017年2月22日(水) 曇り  

 今回は世田谷区の古墳群を巡った。まず、東急大井町線沿線・上野毛駅~九品仏駅に分布している野毛古墳群7基と等々力渓谷、そして通称九品仏・九品山浄真寺を訪れた。ハイライトは玉川野毛町公園・野毛古墳群で最大規模を有する野毛大塚古墳、径82mの帆立貝形古墳。同種の古墳として日本最大級である。
 次に、九品仏駅から大井町線で二子玉川駅へ。駅前から東急バス・成城学園前駅行に乗り、次大夫堀公園前で下車。付近に分布する喜多見古墳群4基と、江戸氏ゆかりの慶元寺を訪れた。

参加者: 野崎芳信 、岩瀬 翠(等々力渓谷まで)、柳沢道生

集合写真: 玉川野毛町公園・野毛大塚古墳にて 

b0222-0 野毛大塚古墳-集合n
 
1.五島美術館~上野毛稲荷塚古墳
 10時30分頃、東急大井町線上野毛駅に集合、駅から西から北に徒歩約5分、五島美術館へ。東急創設者・五島慶太の美術コレクションを保存・展示するため、五島の没した翌・昭和35年(1960)、旧五島邸の敷地内に開館した。庭園見学コースは300円、国分寺崖線を利用した高低差のある庭園を散策。庭の一隅に稲荷丸北古墳が保存・展示されている。径20mの円墳、築造年代は不詳である。
 来た道を南に戻り徒歩3分ほど、真言宗智山派の寺院・覚願寺がある。天文年間(1532-55)以前の創建と推定。境内に円墳・稲荷丸古墳があったが、現在は消滅しているという。そこから南に歩くとすぐにカトリック上野毛教会がある。昭和27年(1952)男子跣足(せんそく)カルメル会により設立。中国に派遣されていたイタリアのカルメル会士の宣教師達が大陸を追われ、前年に来日した。
 さらに南に徒歩数分、閑静な住宅地に上野毛稲荷塚古墳の案内板がある。4世紀後半、野毛古墳群の中で最初に築造されたと推定。全長20数mの前方後円墳、前方部は削平されたが、クビレ部から後円部にかけては良好に残る。門には施錠され敷地内に入れないのが残念である。

b0222-1n 五藤美術館

b0222-2 上野毛教会-稲荷塚

2. 玉川野毛町公園~ざいもく屋
 上野毛稲荷塚古墳から東に数分歩くと環状八号線に出る。環八通りを南に進むと前方に第三京浜・玉川ICの交差点、歩道橋を渡ると玉川野毛町公園がある。昭和6年(1931)、目黒蒲田電鉄・現東急により開設された等々力ゴルフ場の一部で、戦時中は高射砲基地となる。戦後に、プール、野球場、テニスコート、遊具などを備えた区立の総合公園として整備された。入口を入れば河津桜が満開、公園の奥に野毛大塚古墳の雄大な姿が見えてくる。円墳に小さな前方部・造出しが付いた帆立貝形古墳、築造年代は5世紀頃と推定。周囲に馬蹄形の濠が巡り、これを含めた全長は104mに及ぶ。遊歩道が整備され墳頂に登れる。墳頂には4重に埋設された主体部の図が展示されていた。
 環八通りを渡り住宅地を北に数分、東に数分歩くと等々力渓谷に架かるゴルフ橋に出る。かつてはここも等々力ゴルフ場の一部であった。そのすぐ北側、大井町線等々力駅前にざいもく屋がある。築約120年、元材木商邸の古民家を改装した中華料理店。敷地内に茅葺きの鈴木家穀倉を保存・展示、区の文化財に指定されている。ここで昼食、ランチ1080円~、銘々お好みをオーダー。

b0222-3 玉川野毛町公園

b0222-4 ざいもく屋

3.等々力渓谷~等々力不動尊
 ゴルフ橋に戻り、等々力渓谷遊歩道への階段を下る。東京23区内唯一の渓谷、谷沢川に沿って遊歩道が南に約1km続く。都の名勝に指定。渓谷の中程、環八通り玉沢橋の先に等々力渓谷3号横穴があり、見学用に整備されている。7世紀に築造と推定、全長約13m、都の史跡に指定されている。岩瀬さんはここまで、遊歩道を戻り、等々力駅から帰路に着く。
 遊歩道をさらに南に歩けば小さなお堂がある。不動の滝である。龍の頭から湧水が流れる2筋の滝。渓谷名の由来となったという轟音は、今は聞こえない。東側の石段を登れば等々力不動尊がある。正式名を滝轟(りゅうごう)山明王院という真言宗智山派の寺院。本尊の不動像は1300年前の作、800年前に興教大師が夢告で武蔵国に不動像を安置する場所を探し、豊富な水量の滝を見て霊地と悟り不動堂を創建と伝わる。関東三十六不動尊霊場の第17番である。

b0222-5 等々力渓谷

b0222-6 等々力不動

4.御岳山古墳~宇佐神社
 等々力不動尊の門前、都道312号の向いに小高い緑の丘が見える。御岳山(みたけやま)古墳、野毛古墳群で野毛大塚古墳に次ぐ規模、全長54mの帆立貝形古墳である。5世紀中頃築造と推定。都の史跡に指定されている。 
 御岳山古墳から等々力一丁目の住宅街を東に歩く。途中、階段を降り、坂を登れば住宅地の一角に台地状の公園、狐塚古墳である。径40mの円墳、5世紀後期の築造と推定。墳頂に墳名の由来となった稲荷社社殿の土台が残る。
 南から東に7~8分歩けば宇佐神社がある。永承6年(1051)前九年の役に出陣した源頼義が当地に布陣し戦勝を祈願、乱の平定後・康平5年(1063)当地に八幡社が創建されたと伝わる。元禄12年(1699)に社殿を再建。社殿の東側に八幡塚古墳・径30mの円墳がある、5世紀中期の築造と推定されている。

b0222-7 御岳山-狐塚

b0222-8 宇佐神社

5.寮の坂~九品仏
 宇佐神社東側、環八通りに至る坂を登る。中程に寮の坂と刻された石碑と案内板がある。宇佐神社の南にある傳乗寺は室町時代創建と伝わる古刹で、かつてこの坂の脇に傳乗寺の僧侶の学寮があったことが名の由来とある。
 環八通りを東に数分歩けば九品仏商店街の南側に出る。元々、九品仏と通称された浄真寺の門前町であり、50年以上の歴史を持つ。商店街を北に歩き、大井町線九品仏駅近くの珈琲専門店・コンパスコーヒーで小休止する。
 九品仏駅前の踏切を渡れば、九品山浄真寺の参道である。小田原落城後に廃城された奥沢城跡に延宝6年(1678)創建。境内奥の中品・上品・下品の三阿弥陀堂に各上生・中生・下生の三体、計九体の印相の異なる阿弥陀如来像が極楽往生の九階層・九品往生を表わす。この九品の仏から浄真寺は九品仏と通称された。境内の大イチョウ、大カヤは都の天然記念物、土塁などに痕跡を残す奥沢城跡は区の史跡、仁王門は区の文化財に指定されている。九体の阿弥陀如来像は平成の改修中、下品上生阿弥陀如来像が修復に出されていた。

b0222-9 浄真寺①

b0222-10 浄真寺②

6.喜多見古墳群
 九品仏駅から大井町線に乗り、二子玉川駅で下車。駅前から東急バス成城学園前駅行に乗り約20分、次大夫堀公園前で下車する。次大夫堀公園は2013年2月23日、第13回部会で訪れた。今回は園内を歩き南に向かう。住宅地の中の道は昔の農道のまま。結構ややこしい。多分このあたりと進めば小公園がある。喜多見古墳群・世田谷区西部、喜多見地区の多摩川左岸台地上に分布する古墳の一つ、喜多見稲荷塚古墳である。径13mの円墳、7世紀頃の築造と推定。周囲は古墳公園として整備され、区の史跡に指定されている。
 次に慶元寺に向かう。山号は永劫山、江戸太郎重長が江戸城紅葉山に天台宗・東福寺として文治2年(1186)創建、応仁2年(1468)当地へ移転。天文19年(1540)浄土宗に改宗した。喜多見稲荷塚古墳近くの案内板の地図を元にアプローチしたが、寺院の北側に出て入口がない。かなり大回りして参道に。境内に喜多見古墳群の一支群・慶元寺古墳群の1号墳が残る。奥の庭園に三基の古墳が残るが公開は正月と彼岸中日のみ。墓地の向こうに三重塔が見える。高さ16m、平成5年(1993)建立と比較的新しいものだ。
 慶元寺門前を東に歩けば、すぐに小さな神社、その南側に竹藪がある。これが第六天塚古墳、径29mの円墳・5世紀末~6世紀初頭の築造と推定。神社は須賀神社、承応年間(1652-54の創建と伝わり、社殿は天神塚古墳、径16~7mの円墳上に鎮座している。次大夫堀公園前バス停に戻り、東急バスで成城学園前駅に。南口近くの焼き鳥・ゴキゲン家で夕食、本日の締めとした。

b0222-11 喜多見稲荷塚-慶元寺①

b0222-12 慶元寺②

b0222-13 第六天塚-須賀神社

所 感
 前回訪れた多摩川台公園の古墳展示室に、概ね大田区に分布している田園調布古墳群と、概ね世田谷区に分布している野毛古墳群から、荏原台古墳群が構成されていることが示されていた。今回は、大田区の続編として世田谷区の古墳を巡った。野毛古墳群のほぼ中間に等々力渓谷があり、散策コースとして良いアクセントとなった。喜多見古墳群については、前回、次太夫堀公園訪問時には古墳という観点がなかったため、今回新たに巡ることとなった。ここも、いわば重層的な史跡で興味深い。ただし、元農道のややこしい道にはいささか閉口させられたが。                       (幹事・柳沢記)





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旅たび倶楽部 第44回部録

2017.01.19.14:19

新春 大田区の古墳群を巡る

2017年1月15日(日) 晴れ  

 新春初歩きとして、大田区の古墳群を巡った。田園調布西側、多摩川沿いにある多摩川台公園には全長100m級の前方後円墳2基、中規模の前方後円墳1基と円墳7基が並ぶ都内最大の古墳群がある。その南の浅間神社古墳、六郷上水沿いに三基の円墳、池上線雪谷大塚駅近くに鵜ノ木大塚古墳がある。池上線で久が原駅に出て西に、鵜ノ木松山公園の横穴墓、その近くの民家に残る円墳、昭和のくらし博物館を経て、光明寺境内の円墳を巡り、池上線で千鳥町駅から蓮沼駅へ。女塚神社境内の円墳を見て、蒲田駅へ。アーケード商店街の歓迎(ホアンヨン)蒲田西口店で羽根つき餃子などの夕食を楽しんだ。

参加者; 柳沢道生、岩瀬 翠(多摩川駅まで)、野崎芳信

集合写真: 多摩川台公園、亀甲山(かめのこやま)古墳にて 

b0115-0 亀甲山-集合

1. 田園調布駅~宝来山公園
 10時過ぎ゙、東急線田園調布駅に集合、西口のモダンレトロな初代駅舎がランドマークになっている。駅前広場から街路が放射状に延びている。電線地中化ですっきりした景観、一戸の区画は広く保たれ緑で区切られている。なだらかな高低差も、街に心地よいアクセントとなっている。
 南西へ、緩やかな坂を進む。とあるお宅の前に抽象画が数点掲げられ、ガレージ・ギャラリーとなっていた。これも田園調布らしさか。徒歩数分で宝来山公園に着く。田園調布住民の組織㈳田園調布会が大正14年(1925)街の一角・潮見台を広場に整備、昭和9年(1934)東京市に寄贈、造園工事の後昭和19年(1944)開園、戦後大田区に移管された。大田区最古の公園である。
 園内を南に歩く。噴水の水面が凍っていた。当日朝の寒さがうかがえる。東南の出口の先に教会がある。プロテスタント系の日本基督教団 田園調布教会、昭和8年(1933)城南福音教会として創立された。園内に戻り斜面を下ると池がある。湧水をたたえた池でここは凍っていない。オシドリの群が遊弋していた。

b0115-1 田園調布

b0115-2 宝来公園

2. 多摩川台公園・多摩川台古墳群
 宝来山公園から南西に進めばすぐに多摩川台公園である。園内に入れば前方に宝来山(ほうらいさん)古墳がある。全長97mの前方後円墳、4世紀後半の築造と推定され、都の史跡に指定されている。その南東、公園北側広場の先に、多摩川台8号墳がある。径17mの円墳である。
 多摩川台公園を南北に区分している谷間を虹橋で超えると、遊歩道の左手に5基の円墳が並ぶ。多摩川台7号墳・径18m、6号墳・径20m、5号墳・径20m、4号墳・径18m,、3号墳・径14mである。そこから小路を隔てて円墳・2号墳・規模不詳、1号墳・前方後円墳・全長39mが並ぶ。
 1号墳の南の道を東に進めば古墳展示室がある。古墳群からの出土品、東国で6世紀に建造された横穴式石室をもつ前方後円古墳後円部の一部を実物大で再現したレプリカなどが展示されている。無料で見学できる。
 来た道を戻り、南に進めば亀甲山古墳がある。全長107mの前方後円墳、5世紀前半の築造と推定、国の史跡に指定されている。ここで集合写真を撮る。 

b0115-3 多摩川台公園①

b0115-4 多摩川台公園②

3.多摩川台浅間神社~多摩川ダイナー
 古墳展示室の先の出口から北に進む。前方に尖塔が見える。カトリック田園調布教会である。 昭和6年(1931)カナダ・フランシスコ会宣教師により創立された。来た道を南下、東急東横線の高架を潜れば、右手に大黒堂がある。名物鮎焼き、鯛焼きの鮎版である。お土産に購入する。
 南に歩けば多摩川台浅間神社の参道がある。武蔵国荏原郡下沼部村には浅間・赤城・熊野の三神社があったが、明治40年(1907)一村一神社令により合祀、浅間神社が村の鎮守となった。境内には多摩川を望む展望台がある。社殿は都内唯一の浅間造で、浅間神社古墳上に鎮座している。浅間神社古墳は全長60mの前方後円墳で5世紀末~6世紀初の築造と推定されている。 
 参詣し、ここで岩瀬さんは多摩川駅から東急多摩川線で蒲田に向かう。残り2名は神社西側へ。屋上が多摩川台浅間神社の駐車場になっている浅間ビルにあるカフェダイニング・多摩川ダイナーへ。二階席を希望すると準備中とのことで、しばし待つ。外階段を登ってオープン直後の室内へ。多摩川と鉄橋を渡る東横線などの電車の眺めが好い。昼食にはキーマカレーセットをオーダー。

b0115-5 教会-浅間神社古墳

b0115-6 浅間神社社殿-多摩川ダイナー

4.六郷用水~鵜ノ木大塚古墳
 多摩川駅南側の多摩川線踏切を渡り、線路沿いを南下、中原街道の高架を潜る。道路の東側に水路、復原された六郷用水だ。2013年2月23日(土)、第13回例会で通った道だ。水路の東側には雑木林が続く。ここに三基の円墳がある。荏原台古墳群の西岡50、52、53号墳である。名称は発掘調査を行った西岡秀雄・慶大名誉教授・大田区立郷土資料館元館長に由来する。50号が径32m、52・53号は規模不詳。接近方法がなく、明確な観察は難しい。
 水路に足踏み水車・ジャバラが復元されている。その先に、真言宗智山派の寺院・有慶山東光院がある。文禄3年(1594)に没した義賢和尚の創建と伝わる。玉川八十八ヶ所霊場55番である。門前の通りは旧中原街道だ。
 旧中原街道を北に歩く。最初の交差点が「さくら坂」である。福山雅治の代表曲のテーマとして著名となった。古くは沼部の大坂と呼ばれた。大正12年(1923)の改修工事で切通しとなり、昭和5年(1930)桜を植樹、桜の名所となった。
 旧中原街道をさらに進めば、田園調布警察署前交差点に出る。中原街道と環八通りが交わる。中原街道を東に、最初の路地を左折、徒歩数分で神社がある。雪谷大塚稲荷神社、社殿は鵜ノ木大塚古墳上に鎮座している。径27mの円墳、当地がかつて鵜ノ木領の飛地であったことが墳名の由来である。

b0115-7 六郷用水-.東光院jpg

b0115-8 さくら坂-鵜ノ木大塚古墳

5.嶺白山神社~鵜ノ木八幡宮
 雪谷大塚稲荷神社から東に徒歩約5分、雪谷大塚駅へ。東急池上線で蒲田方向へ2駅、久が原駅で下車。駅前商店街を西に歩けば、環八通り沿いに嶺白山神社がある。寛文年間(1661-72)に女体権現社として創建、 明治初年、現社名に改称。古くから当地の氏神として崇敬された。
 環八通りを渡るとかなり高低差のある住宅地、西に数分歩けば鵜ノ木松山公園がある。低位置にある入口から見上げる公園はなるほど松山にふさわしい。ここに鵜ノ木一丁目横穴墓群の1基が保存されている。6世紀末~8世紀前半の築造と推定される横穴墓群である。しかし、公園入口に案内板もなく、よくわからない。公園中を探しまわり、ようやく南出口付近で発見できた。横穴はガラスで保護され、内部はライトで照らされている。
 鵜ノ木松山公園の南、住宅地の中の民家の際先に鵜ノ木一丁目15番古墳・径17mの円墳がある。墳頂に小さな祠。ここも探索に苦労した。
 真言宗智山派の寺院、増明院の門前で環八通りを渡り、坂を登れば鵜ノ木八幡宮、永徳元年(1489)創建と伝わる。境内の紅梅は、いちはやく開花していた。神社前の道は昔の筏道、奥多摩から筏を組んで多摩川で木材を運んだ筏師が、仕事を終え徒歩で帰ったルートであったという。

b0115-9 嶺白山神社-鵜ノ木一丁目横穴墓

b0115-10 鵜ノ木1-15古墳-鵜ノ木八幡神社jpg

6.昭和のくらし博物館~光明寺荒塚古墳
 神社前の筏道を南に歩くと傍に小鳥居、道祖神、当地の俗称はおしゃもじ様。道祖神は路傍の神、村内と村外の境や辻、三叉路などに石碑・石像の形態で祀られる。絵馬代わりのしゃもじが奉納されていた。
 その南に昭和のくらし博物館の案内。入れば木造二階建の民家を改装した博物館がある。終戦直後、東京都の建築技師だった小泉孝が設計し建てた自宅を、長女で生活史研究家の小泉和子・元京都女子大学教授が、昭和20〜30年代の庶民の暮らしを後世まで伝える目的で博物館に改装し、平成11年(1999)に開館した。隣接して、画家・吉井忠の部屋が開設されて、彼の作品が展示されている。
 両館を見学し、西への坂を降りれば環八通りに出る。信号を渡り、通りを南東に歩けば光明寺の山門に出る。山号は大宝山、天平年間(729-49)行基が開創、弘仁年間(810-24)空海が再興し、寛喜年間(1229-32)浄土宗に改宗したと伝わる。本堂右手の石段を登ると綺麗に整備された円墳が見える。光明寺荒塚古墳、径23m、元は2号墳もあったが現在は削平されているという。

b0115-11 道祖神-昭和のくらし博物館

b0115-12 光明寺

7.女塚古墳~蒲田駅西口・歓迎
 光明寺山門から環八通り、藤森稲荷前交差点を渡り東へ。徒歩7分ほどで千鳥町駅に出る。池上線で蒲田方向に2駅、蓮沼駅で下車する。
 駅から東~北東方向に徒歩約7分、相生小学校の南側に女塚神社が鎮座している。南北朝時代(1336-92)に八幡社として現・蒲田駅付近に創建。明治21年(1889)当地に遷座、現社名に改称した。社殿左に円墳・女塚古墳があり、墳頂に白山明神が祀られている。傍らの石碑に「女塚古墳の由緒」として「南北朝時代の烈士新田義貞の子義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害されたのを村民が憐み、この地に祀ると伝えています」と刻されている。
 女塚神社から東進、南下、東進すること約5分、右手に全面が魚形窓のユニークなビルが見えてくる、蒲田シオン・キリスト教会。プロテスタント・ホーリネス系福音派初の蒲田賜恩教会として昭和9年(1934)に創立された。
 教会から南下し、蒲田駅前アーケード商店街へ。お目当ての歓迎・西口店には予定よりかなり早着、開店の17時まで間がある、日も暮れうすら寒くなってきた。開いていた北の国酒場に入り、晩酌セットで時を待つ。17時も過ぎ、歓迎へ。何と一階席はすでに満杯。幸い二階席はまだ余裕があり、名物・羽付き餃子をはじめとする点心と中国料理を、紹興酒ロックとともに堪能した。

b0115-13 女塚-シオン教会

b0115-14 歓迎

所 感
 今回も懸念は天候であった。今季最大の寒波到来、全国的に豪雪が警告されていた。前日、天気図を見れば関東地方を除き、北日本はもとより、西日本全域まで、白い雪の表示であった、川崎市北部も、降雪はなかったものの、強い北風が吹き、冷え冷えとしていた。当日は晴れ、風を気にしつつ外に出れば微風、体感温度は前日比5度は上回っていただろう。田園調布駅で岩瀬さん曰く、出がけの坂戸市では風花が舞っていたそうだ。ここからは、想定しにくい。この日、幸いにも天候が崩れることはなく、充実した初歩きが楽しめた。 (幹事・柳沢記)
 















旅たび倶楽部 第43回部録

2016.12.30.14:40

東松山市・高坂地区の古墳群を巡る

2016年12月20日(火) 晴れ  

 今回のコースは、元々11月24日(木)に予定していた。しかし、当日は時ならぬ降雪、観測史上初めて、11月に東京で積雪が観測されたという天候に見舞われ、開催を12月に延期した。場所は東武東上線、坂戸駅の二つ北側、高坂駅周辺の古墳群を巡る行程である。全長100m超級の前方後円墳・野本将軍塚古墳は著名であるが、調べて見れば街中に多くの古墳が点在していた。

参加者; 柳沢道生、野崎芳信、岩瀬 翠(高坂駅西口から)

集合写真: 野本将軍塚古墳にて

b1220-0 野本将軍塚古墳-集合

1. 高坂古墳群-南
 10時、東武東上線高坂駅に集合、東口に出る。高坂駅西口は住宅地の玄関口として整備されているが、こちらは造成中の新興住宅地といった印象。駅徒歩数分内にまだ空地も散見される。始めに、高坂古墳群を巡る。東松山市南部、高坂駅の東側、高坂台地の北東に分布している。
まず南へ、徒歩3分ほどで行く手に小高い緑が見える。拂田稲荷神社、天文3年(1534)創建の古社。拂田稲荷神社古墳・別称高坂13号墳、径30mの円墳上に鎮座している。お参りし、東に歩くと前方に高坂小学校がある。南下し、高坂小南側を東に進む。数分で左手に緑の塊、高坂12号墳、径13mの円墳である。
 東に数分歩き、北に折れると畑地の中に円墳がある。高坂11号墳・規模不詳。その東側、林の中にもう一つの円墳、高坂10号墳・径13mがある。そこから北に5分ほどで県道212号に出ると鳥居が見える。平安時代創建と伝わり当地の鎮守として崇敬されてきた高坂神社、境内に高坂神社古墳・別称高坂9号墳、円墳・規模不詳がある。さらに北に進むと5分ほどで天台宗の寺院・東光院がある。その東南、民家の庭に高坂6号墳、円墳・規模不詳がある。
 拂田稲荷神社古墳から高坂神社古墳までは高坂駅の南東にあたる。

b1220-1 拂田稲荷-高坂12

b1220-2 高坂11-10

b1220-3 高坂神社-高坂6

2. 高坂古墳群-北
 東光院の北側に高坂駅東口に至るバス通りがある。それを渡った北側、畑や造成地に囲まれて円墳、高坂5号墳・径14mがある。そこから西に進むと数分で県道344号に出る。県道沿いのたんぽぽ歯科、その北側の空地で遺跡の発掘現場に出くわした。戻ってから調べて見ると、東松山都市計画事業高坂駅東口第一土地区画整理事業に伴う遺跡調査、どうやら高坂二番町西遺跡のようだ。東松山市の資料によれば、発掘調査は12月に終了、古墳石室2基、住居跡2軒、溝 53 条、土坑 68 基、柱穴 345 基が確認されたという。
 たんぽぽ歯科の東側、県道を渡った先に緑の塊、高坂3号墳・径13mがある。県道を北に数分、東に数分歩くと寺院がある。曹洞宗の寺院・高済寺である。西側に土塁がある。当地には中世・高坂氏、江戸期・加賀爪氏の館が置かれた。土塁はその遺構だが、北側一帯は円墳であり、土塁はそれを利用したものだという。高済寺古墳・別称高坂1号墳・規模不詳、墳頂に当地一帯の代官を務めた加賀爪氏累代墓所があり、県の文化財に指定されている。
 高坂5号墳から高済寺古墳までは高坂駅の北東にあたる。

b1220-4 高坂5-発掘現場

b1220-5 高坂3-高済寺古墳

b1220-6 高済寺

3.毛塚古墳群
 高済寺から西へ、東武東上線の踏切を渡り、広大な都幾川河川敷の西側、堤防上の道を進む。この一帯に諏訪山古墳群があるはず、それらしき場所をあちこち探索するもよく分からない。後になって見れば、曲がるべき地点が大分手前だったようだ。時間もかなりロスし、南に向かうこととする。
 高坂駅西口から伸びるバス通りに出て、予定していた食堂に向うが、あいにく定休日、そこで今度は通りの飲食店を探索、インド・ネパール・アジア料理の店・ラシカに入る。インド人とおぼしき店主、内装もインド風。ここでキーマカレーセット・800円を注文。巨大なナンと少々のライスが付く。
 一心地つき、今度は南へ。県道212号を渡り、数分行けば宏仁会高坂病院がある。その駐車場南側に毛塚2号墳、円墳・径23mがある。毛塚古墳群、東松山市南部、高坂駅の南西、高坂台地の南西に分布している。26基が確認されているが、消滅したものも多いという。ここから、南の毛塚20号墳、南東の毛塚1号墳を巡る予定であったが、かなり時間が押していた。予定をショートカットし、北に戻り、最初の交差点を東に進む。東上線跨線橋北側の天神社にお参りし、そのすぐ北側にある稲荷林公園を抜け、高坂駅西口に向かう。

b1220-7 ラシカ-毛塚2

b1220-8 天神社-稲荷林公園

4. 野本古墳群
 14時15分、高坂駅西口で岩瀬さんと待合せ。20分発の東松山市循環バスに乗り約20分、野本市民活動センターで下車。バス停北側に野本将軍塚古墳・別称野本1号墳がある。現状、全長115mの前方後円墳。前方部後円部とも削られ、復元すれば埼玉古墳群・二子山古墳・全長138mを超える可能性があるとされる。後円部には平安中期の武将で、武蔵守等を歴任した藤原利仁を祀る利仁神社が鎮座しており、県の史跡に指定されている。ここで集合写真を撮る。野本古墳群は東松山市南東部、松山台地の東方に分布している。
 野本将軍塚古墳の北側に曹洞宗の寺院・無量寿寺がある。境内の石造八体仏が目をひく。当地は鎌倉時代の領主・野本氏の館跡であり、市の史跡に指定。
 野本将軍塚古墳の南側、県道345号を東に7~8分歩くと、県道南側に東松山市埋蔵文化財センターがある。市内の遺跡の調査・研究を目的に設立。出土品等を1階展示室に展示。事業予定地が埋蔵文化財包蔵地に該当しているかの確認や、県道344号沿いの遺跡発掘調査なども、当館の事業の一環である。
 県道345号をさらに東に、最初の丁字路で北に進めば、左手に径15mの円墳・野本4号墳がある。一帯が緑に覆われ、判別はなかなか難しい。

b1220-9 利仁神社-無量寿寺

b1220-10 資料館-野本4

5.柏崎古墳群~東松山駅
  野本4号墳から北東に進めば国道254号に出る。東に数分で、国道407号との合流点、柏崎交差点がある。そこから東に数分、畑の中におくま山古墳・別称柏崎1号墳・熊野山古墳がある。全長62mの前方後円墳、6世紀前半の築造と推定、墳頂におくま神社が鎮座している。おくま神社とは熊野神社の俗称、市の史跡に指定。柏崎古墳群は東松山市南東部、松山台地東方、野本古墳群の北東に分布している。県の重要遺跡に指定されている。
 おくま山古墳の東方、徒歩数分の畑の中に円墳がある。柏崎3号墳・径13mの円墳である。その北方に大倉工業の工場が広がる。その東側を迂回し工場北側、畑地の中の住宅の一隅に天神山古墳・別称柏崎10号墳がある。全長57mの前方後方墳、4世紀前期~中頃の築造と推定、とのことだが墳丘は殆ど削られ、畑地の区画にその痕跡が推定されるのみ。
 そこから北西に徒歩約10分、曹洞宗の寺院・万松寺があり、本堂西側の墓地に県の天然記念物・万松寺の椎がある。推定樹齢約五百年だが、落雷によりその一部を残すのみ。国道407号を渡り、西側の稲荷塚古墳・別称柏崎13号墳・径36mの円墳[36]、その北西の柏崎15号墳・径17mの円墳を巡り、その北側、国道407号沿いのパークタウン五領バス停から川越観光バスで東松山駅へ。
 東松山駅東口北側の商店街を北に歩く。最初の交差点西側の広場にはイルミネーションが点灯されていた。そのすぐ北側にある魚処・ばなゝやで夕食。色々あった本日の締めとした。

b1220-11 おくま山-柏崎3

b1220-12 万松寺-稲荷塚

b1220-13 イルミ-ばななや

所 感
 11月は大雪、今回も前夜まで雨が降り、天候が思いやられた。当日の予報も曇り時々雨であったが、幸いにして当日は好天に恵まれた。前半戦は思いのほか好調であったが、諏訪山古墳群以降は不満足な結果になってしまった。初めてのコースは、それなりの事前チェックを心掛けているものの、11月に済ませたはずという思いが油断を招いたのかもしれない。本年の歩き納めである。反省とともに、新年への教訓と受けとめたい。            (幹事・柳沢記)










  

旅たび倶楽部 第42回部録

2016.10.27.22:12

坂戸市・毛呂山町の古墳群を巡る 

2016年10月21日(金) 晴れ  

 今回は埼玉県坂戸市と、西に隣接する入間郡毛呂山の古墳群を巡った。まず坂戸市西部の善能寺古墳群、毛呂山町の大類古墳群、隣接する坂戸市の塚原古墳群。なお、大類・塚原両古墳群は苦林古墳群と総称されている。昼食の後、坂戸市北東部へ向かい新町古墳群、勝呂古墳群、雷電塚古墳群などを巡った。
 また、坂戸市民俗資料館で市内遺跡からの出土品や農具・民具・養蚕用具などの民俗資料と、その近くにある埼玉県最古の寺院遺構、勝呂廃寺跡を見学した。100m級の大型古墳こそないが、中型の前方後円墳や多くの円墳が見られた。

参加者: 柳沢道生、野崎芳信(集合写真順)、岩瀬 翠(ホット・ベリーから)

集合写真: 苦林古墳墳頂、苦林野合戦の戦死者供養塔前 

b1021-0 苦林-集合

1. 善能寺古墳群
 10時40分、東武東上線坂戸駅に集合。駅前から川越観光バス・大橋行に乗り約7分、県道171号に入り入西(にっさい)バス停で下車。南に徒歩約7分、行く手にこんもりとした木々が見えてくる。愛宕山古墳、別称・善能寺1号墳、径27mの円墳で、墳頂に金比羅大神が祀られている。9基の円墳から構成される善能寺古墳群の主墳である。一回りして、西方にある円墳を巡る。古墳らしきもの、いくつかあったが、あいにく案内板などなく、何号墳かはよく分からない。
 北に戻り、最初の角を西に曲がると善応(ぜおう)寺に至る。曹洞宗の寺院で南北朝期の文和年間(1352-56)に当地の領主・広沢善応が創建したと伝わる。それゆえ、寺号は善応寺なのだが、地名・古墳名は善能寺と記す。この違い、何故か。調べて見たものの、回答は得られなかった。近くに善応の館跡もあるという。歴史ある寺だが、本堂・庫裏とも一見民家風の外観であった。
 先ほどの角に戻り、北へ向かう。行く手に広沢瓦店がある。善応さんのご子孫なのだろうか。次の角、畑の中の道を西に進む。

b1021-1 善応寺

2. 大類古墳群
 善応寺北側を過ぎればほどなく坂戸市と毛呂山町の境、過ぎればすぐに2車線の道路、それを北に歩けば苦林古墳、別称・大類1号墳がある。全長24m、小型の前方後円墳、町の文化財に指定されている。きれいに整備された墳丘の上に古い石碑が立っている。貞治2年(1363)に足利基氏と前越後国守護芳賀禅可が当地で戦った、苦林野合戦の戦死者供養塔で江戸期に造立された。
 古墳前の小径を北西に進み、丁字路で南西に向えば右手に林が見える。この辺りは坂戸市で、そこに塚原古墳群がある。前方後円墳3基、円墳15基からなる古墳群だが、アプローチ困難、遠目に見るのみ。緑が深く判別できない。
 左の畑の中、全長26mと小ぶりであるが、きれいな前方後円墳の形状が見てとれる。大類2号墳である。畑の中に原型が残されているのは珍しい。
 大類古墳群にはこの他に円墳39基がある。古代には坂戸市、毛呂山町の区別などなく、一体の古墳群であったろう。総数60基近い古墳群、壮大な規模だ。
 行く手に林、近寄れば明らかに円墳、見渡せばいくつも見えてくる。最初が3号だろうがその後は何号墳か判別不明。南東に曲がってやや行けば右手に十王神社がある。苦林野合戦で討死した芳賀氏の臣・金井新左エ門他九名の霊を祀る。その境内も円墳だらけと言ってよい。神社西側の林にはまだまだあるようだ。時間も気になり、北に向かい県道171号を目指す。

b1021-2 苦林-塚原

b1021-3 大類2-3

b1021-4 十王神社

3.善能寺バス停~入西団地バス停
 途中、大類6、7号墳とおぼしき林を右に見ながら県道に出れば善能寺バス停、入西バス停の西隣である。その北側にあるラーメンはやとで昼食。つけめん800円をオーダー。ピリ辛なつけ汁が太麺に良く合う。
 腹ごしらえの後、概ね北東方向に徒歩5~6分、赤い鳥居が見える。入西神社である。古くは氷川神社であったが、明治22年(1889)に入間郡17ヵ村が合併して成立した入西村に因み、大正元年(1926)現社名に改称した。
 入西神社の鳥居のすぐ先、鳥居同様の赤い屋根のお堂がある。真言宗智山派の寺院、龍光寺である。創建年代は不詳だが、文化文政期(1804-29)に編まれた新編武蔵風土記稿に記事があり、創建はそれ以前といえる。明治初年の神仏分離までは氷川神社・現入西神社の別当寺であった。
 龍光寺から北に徒歩数分、東に向きを変え進めば今までの田園風景から近代的な景観に変わってくる。住宅地の中のモダンな工場が広がる、クノールとあったので食品かと思って調べたら、クノールプレムゼというドイツ・ミュンヘンに本社がある輸送機器会社・日本法人の工場であった。
 その先で広い道路に出る。入西団地の外周道路である。入西団地は正式名・坂戸ニューシティにっさい、広さ約120ha、人口9300人、都市再生機構が平成元年(1989)から19年かけて開発した団地、というより、まさにニューシティである。外周道路にある入西団地バス停へ。ここから遊歩道・せせらぎ通りが伸びている。散策するほどの時間もなく、北坂戸駅行の川越観光バスが来た。

b1021-5 はゃと-入西神社

b1021-6n 龍光寺-せせらぎ

4. 北坂戸駅~勝呂廃寺跡
 北坂戸駅西口でバスを降りる。南へ徒歩3分ほどのカフェ、ホット・ベリーで休憩かたがた岩瀬さんと待合せ。と思っていたら店の前、向こうから岩瀬さんが来るではないか。何というジャスト・イン・タイム。店内で予定を早め、循環バスではなくタクシーで次の目的地に行こうと衆議一決。
 あちこち巡回しないタクシーはすぐ目的地、石井新町に着く。小径を2~3分歩けば胴塚古墳である。別称・新町1号墳、全長67mの前方後円墳で、6世紀後半築造と推定。胴塚古墳を主墳とする新町古墳群は他に数基の円墳、1基の方墳かあったが、削平・滅失等で状態の良いものはここのみのようだ。
 そこから東に徒歩7~8分、市立勝呂小学校東側に歴史民俗資料館がある。昭和13年(1928)築の勝呂小学校旧校舎の一部を移築・改装した。学校の雰囲気の残る館内に入るとすぐに大型の埴輪が並ぶ。むき出しの展示が好い。馬の埴輪はこれから行く雷電塚古墳からの出土品だという。農具、民具などの他、特に目を引いたのは養蚕用具と中世の板碑の展示だ。詳しい解説もある。
 歴史民俗資料館の南側に勝呂公民館分館がある。その構内に勝呂廃寺跡が公開されている。勝呂寺は飛鳥時代・7世紀後半建立された埼玉県域では最古・最大の古代寺院。当地では古くから古瓦が出土、昭和54~55年(1979-80)の発掘調査で勝呂寺の五重塔跡などの遺構が発掘された。

b1021-7 ホットベリー-胴山

b1021-8 資料館-廃寺

5.勝呂神社~西光寺
 勝呂公民館分館から東に歩き、数分で路地を南下、さらに東に向えば前方に緑の丘が見える。近寄れば麓に赤い鳥居、勝呂神社だ。丘は勝呂神社古墳、径50m頂の円墳、別称・勝呂1号墳である。勝呂神社は社伝によれば、この古墳に葬られたという建渟河別命(たけぬなかわわけのみこと)を祀り、寛和2年(986)加賀一宮・白山宮の分霊を勧請し創建。以来、白山権現社として崇敬された。明治初年、神仏分離令によって白山神社と改称。明治42年(1909)現社名に再改称された。発掘調査により神域に東山道武蔵路(むさしみち)跡が確認された。勝呂廃寺との関係が注目されている。石段を登り社殿にお参りする。
 鳥居前の小径を東に歩き、通りに出て南下する。勝呂小学校の児童だろう。集団下校中。谷治川放水路を渡り、さらに進めば右手に教会がある。プロテスタント系の教派・日本ホーリネス教団の坂戸教会、愛称・ホワイトチャペルである。
 そこから東に進む。すぐに右手は深い林となる。大宮住吉神社の境内だ。天徳3年(959)長門一宮・住吉神社の分霊を勧請し創建。歴代源氏の崇敬を受け、文治3年(1187)源頼朝により北武蔵十二郡の総社に指定された。
 大宮住吉神社に北側に曹洞宗の寺院、西光寺がある。創建は寛永20年(1643)越後上杉氏の元家臣で、当地に帰農した小島豊後の寄進によると伝わる。目につくのは山門の両脇に造立された二体の石造仁王像、素朴だが力強い表情。案内板によれば元禄12年(1699)の作、石造仁王像は数少ないという。中武蔵七十二薬師尊の22番の札所である。

b1021-9 勝呂神社-教会

b1021-10 住吉神社-西光寺

6.雷電塚古墳~若葉駅
 西光寺から東に約7分歩けば、坂戸市内循環バス・さかっちワゴンの雷電塚入口バス停である。すぐ先の、古鎌倉街道と伝わる道を南下すれば、雷電塚古墳が見える、全長47mの前方後円墳、別称・雷電塚1号墳。6世紀後期~7世紀初築造と推定。墳頂に雷電社の石祠、周囲に幅6mの周濠がある。その南隣には稲荷塚古墳、別称・雷電塚2号墳がある。墳頂に稲荷社のある径15mの円墳だ。
 雷電塚古墳の北側に東光寺がある。山号は薬王山、真言宗智山派である。創建については、承安元年(1171)当地にあった池に薬師如来が出現し村人が畏れ寺を建立したという伝承が残る。また、元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めに際し当地付近で休息の折、東西に光る地があり、それぞれに寺を建立、東光・西光両寺としたという伝承もあるが、西光寺の創建が正しいとすれば、この話には無理があるようだ。本堂前に、仏陀の足跡を祀った仏足石があった。古代仏教で仏像に先行して敬われたという。本堂裏手に径20mの円墳、東光寺古墳、別称・雷電塚3号墳があり、雷電塚古墳・稲荷塚古墳とともに雷電塚古墳群を形成している。
 雷電塚入口バス停に戻り、さかっちワゴンで東武東上線・若葉駅へ。駅前の餃子の満州で夕食、紹興酒ロックで喉を潤し、お開きとした。

b1021-11 雷電塚-稲荷塚

b1021-12 東光寺

b1021-13 雷電塚-集合

所 感
 好天に恵まれた散策日和であった。午前中に訪れた大類古墳群、特に十王神社一帯は、9月に探訪した千葉県成田市・印旛郡栄町に跨る龍角寺古墳群に匹敵する密度で円墳が分布していた。ただ、大きな違いがあった。龍角寺では風土記の丘エリア内の全ての古墳に墳形、規模を示す案内板があったことだ。今回巡った地域は、緑も深く、また古墳と推定しかねる隆起もあり、個々の古墳の判別は極めて難しかった。遺跡保存とともに、この点の改善を願いたい。
 午後の部で、予想外といっては失礼だろうが、好かったのは坂戸市歴史民俗資料館である。タクシー利用で時間に余裕ができたので訪れた。新設の建物に、出土品や民具などが、さしたる解説もなしにただ並べ展示している施設もときおり目にするが、それ自体歴史的価値のある重厚な戦前の校舎の教室に、丁寧な解説とともに、資料が整理・分類・展示されていた。また、坂戸市の遺跡調査の年刊資料も充実しており、参考になった。           (幹事・柳沢記)



旅たび倶楽部 第41回部録

2016.09.15.11:42

成田市~印旛郡栄町 房総のむら~龍角寺古墳群

2016年9月7日(日) 曇り時々小雨  

 房総のむらは、千葉県成田市と印旛郡栄町の間に広がる総面積約32haの県立野外博物館。この施設とその周囲には、総数113基からなる龍角寺古墳群がある。36基の前方後円墳、71基の円墳、6基の方墳から構成、築造年代は5世紀後半~7世紀と推定され、殆どが国の史跡に指定されている。
房総のむらは、江戸時代の宿場町や農村を再現し、様々な伝統技能を体験できる原則有料のふるさとの技体験エリアと、無料の風土記の丘エリアに分かれている。後者には多数の古墳が分布する他、国の重要文化財・県の文化財に指定されている2棟の古民家などが移築・保存・公開されている。
 今回はまず、ふるさとの技体験エリアを見学した。本文ではこのエリアを便宜的に「房総のむら」としている。次いで風土記の丘を巡り、その北方にあり東国最古の寺院とされる龍角寺を訪れた。さらに、酒直(さかなお)坂上バス停に向かい、周辺の古墳を巡り、成田線安食駅から柏駅に出て夕食とした。

参加者; 柳沢道生、野崎芳信(集合写真順)

集合写真: 房総風土記の丘、龍角寺101号墳にて

b0907-0 101号古墳-集合

1.房総のむら(南側)
 10時50分、成田線安食(あじき)駅に集合。駅前から千葉交通バス・竜角寺車庫行に乗り約10分、房総のむらバス停で下車する。徒歩数分、行く手に白亜の洋風建築、旧千葉県会議事場が見えてくる。1階には房総のむらでロケが行われた映画やTVドラマの写真が展示されている。その隣の受付棟で、房総のむら・ふるさとの技体験エリアへの入館手続き。一般の入館料は300円だが、中学生以下と65歳以上は無料。我々も年齢の証明のみで入館できる。有難い。
 入館すれば、江戸時代の街道沿いの宿場町を再現した町並みが続く、そば屋いんばの開店にはまだ間があるようだ。めし屋、小間物屋、呉服屋、酒屋、薬屋、川魚屋、瀬戸物屋、菓子屋、茶屋、本屋、紙屋、細工屋、畳屋、木工所、鍛冶屋などが並び、幾つかの店では伝統工芸などの体験もできる。
 町並みを過ぎた先の林の中に、隆起が見える。龍角寺79号墳・径15mの円墳である。その東側の草地に83号墳があったとのことだが、現状は削平されており痕跡はない。行く手に茅葺き屋根が見える。武家屋敷、佐倉市に現存する佐倉藩中級武士の屋敷を復元した。現地の主屋の屋根は金属板で覆われているがここでは当初の茅葺きが再現されている。さらに進めば畑の中に茅葺きの長屋門、山武郡大網白里町の秋葉家を復元した上総の農家である。主屋だけでなく付属棟まで再現されており、上層農家の佇まいがよく分かる。

b0907-1 房総のむらa

b0907-2 房総のむらb

b0907-3 房総のむらc

2. 房総のむら(北側)
 先ほどバスで通った県道18号・成田安食バイパスを歩道橋で超え、ふるさとの技体験エリア北側へ。右他の草原に茅葺きの農村歌舞伎舞台、旧香取郡大栄町・現成田市にあったものを復元した。茶屋の横の道を進めば水車小屋がある。江戸末期のものを復元、内部では穀類の精白用搗臼2基が稼働している。
 斜面を登れば道の傍らに庚申塔、六地蔵、石墓などが並ぶ。林の中の隆起は龍角寺110号墳・径26mの円墳である。行く手には茅葺き白壁の長屋門と蔵、下総の農家、成田市堀の内の平山家を復元した。付属棟の軒先には小ぶりの瓢箪が実っていた。さらに進めば安房の農家、安房郡三増村の平野家を復元したものである。九州、東海、関東の太平洋側に広く分布している分棟型、主屋と釜屋が接している構造が特徴である。安房の民家近くの林の中にも隆起、龍角寺109号墳・径26mの円墳である。ふるさとの技体験エリア南側に戻る。
 町並みの入口にあるそば屋いんばへ。とろろそば700円を注文、江戸風稲荷寿司にも興味があったが、残念ながら売切れとのこと。

b0907-4 房総のむらd

b0907-5 房総のむらe

b0907-6 房総のむらf

3.ドラムの里~風土記の丘(南側)
 旧千葉県会議事場から徒歩数分、栄町の観光施設、ドラムの里がある。ここでは時代衣装などのコスプレ・サービスも行っている。ドラムとは龍角寺の「龍」を「ドラゴン」と読み、その2字「ドラ」と夢「ム」を合成した語。栄町のゆるキャラは「龍夢(どらむ)」君といい、龍の姿で町民に親しまれている。
 ドラムの里の東側道路の脇に案内板がある。みそ岩屋古墳・龍角寺106号墳、辺35mの方墳で7世紀後期築造と推定、「みそ」とは「小型の」の意。北側に辺27mの方墳・107号墳があるという。案内はないがそれらしい隆起があった。そこから南に徒歩数分で「岩屋古墳」の案内板。小路を東に進むと大きな隆起が見えてくる。岩屋古墳・龍角寺105号墳。辺78m・高さ13m、日本最大規模の方墳である。墳丘は三段築成、さすがに大きい。7世紀中頃築造と推定。西側に辺34mの方墳・104号墳があるはずだが木々が鬱蒼と茂り、よく分からない。
 岩屋古墳入口のすぐ南に駐車場があり、その先に古風な洋館があった。旧学習院初等科正堂、明治32年(1899)築である。昭和11年(1936)、御料牧場のあった千葉県印旛郡遠山村・現成田市に下賜され、遠山尋常高等小学校講堂となる。昭和50年(1975)当地に移築・保存。国の重文に指定されている。
 そこからさらに南に徒歩数分、龍角寺101号墳がある。径24m・高さ3.6mの円墳として6世紀に築造、後に前方部を造り出し、全長31mの帆立貝形古墳に改変された。 築造当時の姿に復元されている。ここで集合写真を撮る。

b0907-7 みそ岩屋-岩屋f

b0907-8 学習院-101号

4. 風土記の丘(中側)
 旧学習院初等科正堂脇の道を北に進む。風土記の丘の中ほど、付近には円墳、一部方墳が点在している。さらに進めば前方に茅葺き屋根が見えてくる。
 旧平野家住宅、富津市亀沢から移築された旧名主の邸宅、寛延4年(1751)築。県の文化財に指定されている。その北側にもう一棟の茅葺き古民家がある。旧御子神i(みこがみ)家住宅 、旧安房郡丸山町・現南房総市から移築した安房の典型的農家である。安永7年(1779)築。国の重文に指定されている。邸内には普請入用控帳が展示されていた。この建物の建築に懸った費用が記されている。はりかね代金350文、諸色(大工、木挽、やねや)金壱分300文…、1文は12~20円、1分は約4万円ほどだという。とても珍しい資料で大変興味があった。
 そこから南側にある、印旛沼の見える遊歩道に出る。少し歩けば木立ちの中から印旛沼が見通せる。古代から、当時は印旛浦と呼ばれた海であったろうが、同様の眺めだったのだろうか。この大古墳群が築造された地勢を窺い知ることができる。遊歩道の付近には円墳や、小型の前方後円墳が点在している。

b0907-9 100号-平野家

b0907-10 御子神家-92号

b0907-11 印旛沼-85号

5.風土記の丘(北側)~浅間山古墳
 風土記の丘北側、印旛郡栄町のエリアには風土記の丘資料館がある。この施設も65歳以上は無料で利用できる。千葉県全域の古墳からの出土品物などが展示されていた。古代寺院についての展示、解説はこれから訪れる龍角寺について、大いに参考になった。また、付近に成田市公津原古墳群に属する瓢(ひさご)塚41号墳と龍角寺108号墳の石室が展示されていた。
 風土記の丘資料館から北に伸びる道は、自然の地形に関係なく直線状をなしている。白鳳の道と呼ばれ、白鳳時代(7世紀後半~8世紀前半)、龍角寺創建時代から使用されてきた古道と考えられている。
 成田安食バイパスをアンダークロスし、やや行けば左手に浅間山古墳への案内板がある。浅間山古墳・龍角寺111号墳は全長78m、龍角寺古墳群最大の前方後円墳である。築造年代は県内では最新の7世紀前半と推定されている。階段を登り墳頂に至る。浅間社を祀った小さな祠がある。白鷗の道から全貌を望むことはできないが、墳頂から前方部を望めばその規模が窺える。

b0907-12 資料館-石室

b0907-13 浅間山

6.龍角寺~柏
 白鳳の道に戻り、さらに北に進む。先日の台風の影響か、竹が道に倒れかっている。やがて、行く手に寺院が見えてくる。天竺山龍角寺、天台宗の寺院である。和銅2年(709)創建と伝わり、東国最古とされる寺院で、境内は、国の史跡に指定されている。中世には衰退、承久2年(1220)再興するが、以降再三炎上した。天正19年(1591)に徳川家康より二十石の朱印状を賜る。境内にはまず仁王門の礎石があり、その先に拝殿がある。境内左手の石塔群は江戸期の歴代住職の墓石だという。境内奥には金堂跡があり、その北側に校倉造の倉がある。境内右手には三重塔礎石、その中心の窪みの水は常に一定であったことから、不増・不滅の石という遺構があり、県の文化財に指定されている。
 龍角寺から南に徒歩数分、付近は龍角寺遺跡群・敷内遺跡のある地だが、案内板などはなかった。西に約5分歩けば成田堺町バイパス、酒直坂上バス停に出る。バスの待ち時間を利用し、龍角寺古墳群西端を巡る。龍角寺9号墳、全長39mの前方後円墳。小路を東に進めば円墳が点在、やがて風土記の丘西口に至る。この界隈にも龍角寺21号墳、全長42mの前方後円墳などがある。
 バスに乗り安食駅へ。そこから成田線・常磐線電車で柏へ。南口徒歩1分にある屋台屋・博多劇場・柏店で夕食、本日の締めとした。

b0907-14 龍角寺a

b0907-15 龍角寺b

b0907-16 9-21号墳

所 感
 台風13号の関東接近が報じられ、当日北関東には大雨注意報が発令されていた。朝、前夜来の雨はやんだようだ、と思っていたら俄かに晴れはじめた。狐につままれた思いで電車に乗ったら空は曇天のままであった。結局、基本は曇天、途中霧雨のような降水はあったが結局、豪雨に見舞われることはなかった。二~三度、かりそめの日差しもあった。
 房総のむらには何度か足を運んだ。風土記の丘の平野家、御子神家を含めた茅屋根探訪が主目的であり、古墳群全域や龍角寺は今回初の訪問であった。何より古墳の数に圧倒された。また、印象に残ったのは遊歩道からの印旛沼の眺めだ。北に利根川、南に印旛沼という台地、古代文化が花開くにはうってつけのロケーションだったのだろう。                 (幹事・柳沢記)
 




  
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