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旅たび倶楽部 第65回部録

2019.04.12.15:00

足立区の花見と古墳・遺跡散策~新橋食事会

2019年4月9日(火) 晴れ  

 今回は、奈良県在住の飯降昌吾さんが久しぶりに東京にお越しになる、ということで、かつて食事会を催した新橋・鴻運での食事会を設定した。その前に、近場で古墳・遺跡と桜がほどよく見られそうな足立区のコース散策を提案し、ご同意を得て催行に至ったものである。

参加者: 柳沢道生、飯振昌吾、野崎芳信

集合写真:  白旗塚史跡公園、白旗塚古墳にて 

b0409-0 白幡塚-集合

1.東武線竹ノ塚駅前~東岳寺
 前日、東武バス逆走のニュースが報道された。現場は竹ノ塚駅西側の信号付近。11時に竹ノ塚駅に集合した一行は早速現場を見に行った。下の写真左は事故で有名となった、開かずの踏切である。現在は高架が開通し通過列車は高架を通るが、駅施設は地上に残り踏切は現役だ、この踏切が引き起こす渋滞が逆走の要因である。下の写真右の道路先鋒から来るバスの一部は信号で左折する。このとき渋滞の車列が信号を超えていれば、信号までの間逆行する場合があったという。地元住民によれば、月に数例あったという。
 現場から北西に歩き、尾竹橋通りへ。通りを北東に3分程歩けば東岳寺がある。山号は南昌山、曹洞宗系単立寺院である。慶長18年(1614)浅草に創建。後に当地に移転。『東海道五十三次』などの作者・初代安藤広重の墓と記念碑があり、都の文化財に指定されている。広重の命日、毎年・9月6日には広重忌と記念展覧会が開催、寺宝の安藤広重作品などが展示 されている。

b0409-1 東武バス逆走地点

b0409-2 東岳寺

2. 白旗塚史跡公園
 東岳寺から尾竹橋通り絵尾北東に5~6分、西側に東武バス足立営業所があり、その策に交差点がある。それを東に徒歩数分で白旗塚史跡公園がある。
 足立区北端を流路とする毛長川南岸に分布する伊興古墳群に属する径約25mの円墳・白旗塚古墳の周囲を整備した歴史公園。白旗塚古墳は5~6世紀築造と推定、周濠が復元され、都の史跡に指定されている。文化・文政期(1804-29)に編まれた新編武蔵風土記稿に、源義家が奥州征伐時に当地で白旗をなびかせ戦ったとの逸話が、白旗塚の名称の由来との記事がある。園内の桜もまさに見頃であった。白旗塚古墳を背景に集合写真を撮る。

b0409-3 白旗塚史跡公園

3. 伊興寺町、常福寺と易行院 
 先程の交差点に戻り、尾竹橋通りを渡った先の路地を西に入れば伊興寺町がある。足立区東伊興一帯は震災や戦災を契機に、浅草など東京下町から移転した寺院が集まり、伊興寺町と通称されている。
 石畳の路地を西に進めば、佛名山常福寺、浄土真宗大谷派の寺院がある。建保4年(1216) 常陸国那珂郡に創建、慶長元年(1656)浅草に移転。震災後、本堂と墓地、戦災後全施設が当地に移転した。境内の桜が美しい。墓地の入口に、海老名家・先代林家三平の墓所があり、お参りする。
 すぐ北側に易行院、山号は日照山、浄土宗の寺院がある。文亀年間(1501-03)浅草に創建、震災後の昭和3年(1928)当地 に移転。入るとすぐに歌舞伎の主役・助六の塚がある。当院の文化年間(1804-18)の過去帳に、俗名・戸沢助六の記事があるという。また、当院は先代・三遊亭圓楽の実家で彼の生前墓だった墓がある。ともにお参りする。著名落語家の墓所が隣接するのも珍しい。

b0409-4 常福寺
b0409-5 易行院
 
4. 伊興遺跡公園~淵の宮氷川神社
 伊興寺町の西端を北上すれば、すぐに伊興遺跡公園がある。淵の宮氷川神社を北限として南北660m、東西690mの広がりを有する縄文~平安時代に至る、区内最大級の複合遺跡・伊興遺跡の一部を整備した歴史公園。園内の弥生時代の方形周溝墓、復原竪穴式住居などが復元・展示され順次見学。次いで縄文~古墳時代の出土品などを展示している展示館を見学する。
 公園北側の通りを西に向えば、すぐ北側に淵の宮氷川神社が鎮座している。別称・伊興氷川神社。創建年代は不詳だが、江戸初期に鷹場などがあり、幕府の直轄地であった渕江領では最古の氷川神社で、渕江領内の総鎮守として崇敬されてきた。当地は古来、水運の要地であったという。後に南足立郡伊興村・竹塚村・保木間村の鎮守社となった。 

b0409-6 伊興遺跡公園

b0409-7 展示館-淵の宮氷川神社

5.まるか家~入谷氷川神社
 淵の宮氷川神社から南下し、西進すれば徒歩5分程の所に蕎麦店・まるか屋がある。昔ながらの街の蕎麦店だ。お品書きのイベリコせいろが気になった。聞けばイベリコ豚で出汁を取った汁に冷や蕎麦を漬けて食すという。珍しいが旨そうな組合わせだ。たのんで見れば汁が成程旨い。今日の天気に合った一品だ。
 そこからバスで入谷氷川神社へ向かう予定だったが、道を間違え乗り遅れる。たまたま通りがかったタクシーに乗り、入谷氷川神社と告げると「ここらは氷川神社だらけでねえ」といま一つの様子。「舎人団地南バス停の側」と言うと、すぐに了解。入谷氷川神社付近で下車する。
 入谷氷川神社は創建年代は不詳だが、豊臣秀吉の関東攻めの時に白幡を立てたことから白幡八幡と呼ばれ、新編武蔵風土記稿にも八幡社と記載されている。明治初年に現社名に変更。長い参道の先の社殿は、伊興古墳群に属する径約24mの円墳・入谷古墳上に鎮座。入谷古墳の築造年代は不詳、別称・白幡塚古墳、東伊興の白旗塚史跡公園の園内古墳とは異字同音、石碑・案内板には「入谷古墳跡」と表記、区の史跡に指定されている。
 
b0409-8 まるか家
 
b0409-9 入谷古墳

6.舎人橋~日暮里・舎人ライナー
 入谷氷川神社から住宅地を概ね北に徒歩10分余、東京都と埼玉県の境、東西に流れる毛長川と、埼玉県行田市から東京都足立区まで南北に流れる見沼代用水の交点・舎人橋。見沼代用水は足立区内では本来の役目を終え、見沼代親水公園内の流路となっている。毛長川の南岸には舎人緑道公園の桜並木が続き、見沼代用水・埼玉側にも桜並木がある。桜並木の交点でもあるのだ。
 舎人橋から南東に10分程歩くと舎人氷川神社が鎮座。今日三座目の氷川神社、タクシー運転手さんの言葉に納得。正治2年(1200)創建と伝わる古社だ。東に数分、北に数分歩くと日暮里・舎人ライナー・見沼代親水公園駅がある。
 日暮里・舎人ライナーは、足立区内の鉄道空白地を解消するため、東京都交通局が平成20年(2008)開業した日暮里駅~見沼代親水公園を結ぶ新交通システム・案内軌条式鉄道である。無人運転のため最前部にも座席がある。ホームで待っていると日暮里駅行が入線。始発駅の優位性で最前席を確保した。

b0409-10 舎人緑道i

b0409-11 舎人氷川-ライナーi

7.舎人公園
 見沼代親水公園駅から2つ目、舎人公園駅で下車する。舎人公園は、昭和15年(1940)に設置が決定された防空緑地の用地を、戦後、公共公園として整備、昭和56年(1981)の一部開園以降、整備拡大を続けている都立の総合公園。現状、面積・約51万平米。各種のスポーツ施設とともに、桜の名所としても知られ、毎年花見の時期には「舎人公園 千本桜まつり」が開催されている。2019年は4月6日(土)~7日(日)に開催。当日、9日も桜は見頃であった。園内を散策、園内中央のお花見広場の桜の下のベンチでしばし桜を眺めつつ憩う。
 次いで、園内南西のレーガン桜へ。明治45年(1912)に日本が米国に寄贈したソメイヨシノがワシントンのポトマック河畔に植栽され、世界的に有名になった。その後、レーガン大統領夫人が来日した際に贈られた里帰り桜が舎人公園に植樹され、レーガン桜と命名。桜の傍らに経緯を刻した桜植樹記念碑が立つ。
 舎人公園駅から日暮里・舎人ライナーで約10分、熊野前駅へ。ここで都電荒川線早稲田駅行に乗換え約10分、荒川遊園駅で下車。線路沿いを西に進み、最初の信号で南下、徒歩約10分の尾久駅に向かう。

b0409-12 舎人公園

b0409-13 re-gan

8.尾久駅~新橋 鴻運新店
 尾久駅は昭和4年(1929)に東北本線の駅として開業。現状は宇都宮線・高崎線の上野駅発着と上野東京ラインのみ停まる。利用者数は日約9,500n人/日、都内のJR駅で下から第3位という、地味な駅である。ここから、上野東京ラインに乗り20分余、7つ目の新橋駅で17時10分頃下車する。
 新橋駅日比谷口、SL広場を西に歩き、ヤマダ電機南側の通りを西に向かう。鴻運はネット上に本店と新店が併記され、前回利用した本店を予約したが、ストリートビューで確認したら、本店は見あたらない。念のため新店の位置も確認しておいた。行って見れば本店は無く、新店の予約はOKだった。
 いよいよ食事会、まず名物ナスの天プラ、飲み物は紹興酒ロック。次いで、マコモ炒め、蒸し鶏、本店の上海家庭料理の味はしっかり継承されていた。焼餃子に続き、豆腐料理のメニューを見れば、大阪豆腐とある。店員さんに訊いたら由来は不詳とのこと。食して見れば辛味のないあんかけ豆腐。大阪との関連は不明だったが、結構な味であった。宴が続き、やがて皆、帰路に就いた。

b0409-14 尾久駅-鴻運新店

b0409-15 ナス天-大阪豆腐

所 感
 今回2度目の訪問となった所が2ヶ所ある。1つは見沼代親水公園駅付近だ。第10回・2012年9月23日(日) 、東京23区東端~北端、水の史跡をめぐる、と銘打って、東京23区の北端、見沼代親水易公園付近の毛長川北側に張出した足立区舎人4丁目と、埼玉県川口市の境の路地から、水の史跡としての舎人親水公園を巡った。今回は桜がテーマで2座の氷川神社を巡ったこともあり、舎人橋~舎人氷川神社~見沼代親水公園駅のルートを巡った。
 前回、2013年9月28日(土)食事会の会場は鴻運本店。今回は鴻運新店なので厳密には2度目で無いかもしれない。ただ、店の雰囲気や味わいもしっかり継承されていた。この点では2度目と言っていいだろう。惜しむらくは本店奥にあった7~8人が使える円卓が無くなったこと。前回の食事会では、ここを利用し、和気あいあいとした宴が楽しめた。          (幹事・柳沢記)
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旅たび倶楽部 第64回部録

2019.04.11.16:20

千葉市 花見?と古墳群・遺跡を巡る

2019年3月27日(水) 晴れ  

 今回は千葉市の古墳・史跡・遺跡を巡った。史跡は築造年代不詳の七ツ塚、千葉大医学部キャンパス内外の七天王塚。次いで青葉の森公園、園内には方墳・荒久古墳があり、中央博物館と分館・生態園がある。園の中央には花見ゾーン。今年の桜の開花が早かったこともあり、花見を期待した。さらに千葉モノレール沿線、みつわ台駅前の大塚古墳、桜木駅下車の加曽利貝塚公園を訪れた。

参加者: 柳沢道生、野崎芳信

集合写真:  青葉の森公園 花見ゾーンにて 

b0327-0 青葉の森公園-集合

1.千葉大医学部キャンパス内外 七天王塚
 11時、千葉駅中央改札口集合。地上に下りバス停7番乗場から京成バス・南矢作行に乗る。10分弱、千葉大薬学部バス停で下車。北側にキャンパスが広がる。バス停は薬学部だが、キャンパスの主役は医学部だ。このキャンパス内外に7つの塚がる。市の史跡に指定された、七天王塚と呼ばれる伝説の塚だ。
 上空から見れば全体で北斗七星を形成している。北斗七星は、当地一帯、亥鼻地区にあった亥鼻城を本拠としていた中世の豪族・千葉氏の祖である平将門が信仰していた妙見信仰の象徴である。各々の塚には牛頭天王が祀られている。これも妙見信仰の神である。塚については将門の7人の影武者の墳墓説、千葉氏7兄弟の墳墓説など諸説あるが、塚の樹木の枝を伐ると将門の祟りがあると伝わり、詳しい調査は行われていないようだ。
 バス停からキャンパスに入ると、北へ三号、二号、一号の3基がある。一号の南東に四号、そこから南下しバス通りに出ると、西から五号、六号、その北東キャンパス内に七号がある。各塚の前には案内板がある。六号の樹木は枝打ちされていた。ここまでなら、将門の祟りには抵触しないということか。

b0327-1 七天王塚①

b0327-2 七天王塚②

2. 青葉の森公園
 千葉大医学部から東に徒歩3分程で交差点に出る。ここが青葉の森公園の正北端である。千葉市中央区、農林水産省畜産試験場の跡地を整備した広さ約54haの県立広域都市公園。昭和62年(1987)に開園した。園内は4つのゾーンに分けられ、スポーツゾーンには陸上競技場、野球場、テニスコートなどのスポーツ施設がある。交差点から10分程歩くと公園北口に出る。
 北口を入ればすぐに県立中央博物館がある。平成元年(1989)に開館した房総の自然誌と歴史に関する総合博物館。65才以上入場無料。日本で唯一、隣接する野外に生態園を併設した博物館である。館内を見学し、次いで生態園へ。園内を散策し野鳥観察舎に、装備の望遠鏡で舟田池の青サギを眺める。
 次いで園内中央の花見ゾーンへ。園内の桜はせいぜい5分咲き、中には未開化の木を散見されたが、花見ゾーンに行って見れば8分咲きの見事な桜が数本、それを背景に集合写真。園内を南下、西洋庭園っから荒久古墳へ。7世紀頃築造と推定される方y約17mの方墳。墳形はかなり改変され土手の一部に見える。
 青葉の森公園西南口を出て、付近のくら寿司で昼食をとる。

b0327-3 青葉の森公園①

b0327-4 青葉の森公園②
 
3. 千葉モノレール、みつわ台駅、大塚古墳
 青葉の森公園西南口前の芸術文化ホール前バス停から小湊バスで約10分、終点の蘇我駅東口に。蘇我駅からJR内房線で2つ目、千葉駅で下車する。
 ここから千葉モノレールを利用。愛称・タウンライナー、正式名称・千葉都市モノレール、通称・千葉モノレール。昭和63年(1988)に一部開業し、平成11年(1999)に全線開業した、第三セクターの交通機関である。千葉駅から千城台駅行に乗り 10数分、みつわ台駅で下車する。
 みつわ台駅南側に大塚古墳が所在する。辺約17mの方墳、築造年代不詳。中近世の塚との見方もあるが、現地案内板では、周囲に古墳時代中期の集落跡、西前原遺跡・稻台遺跡・石神遺跡や、駒形古墳群・戸張作古墳群・海老名古墳群などが分布していることから、古墳であると推定している。
 千葉モノレール千城台駅行に乗り2つ目、桜木駅で下車する。

b0327-5 大塚古墳

4. 加曽利貝塚公園
 千葉モノレールの高架沿い、南東に徒歩約7分、セブンイレブン脇から南下すると徒歩数分で加曽利貝塚公園の北西口がある。
 加曽利貝塚公園は縄文時代築造と推定される世界最大規模の貝塚・加曽利貝塚一帯を整備した市立公園。国の特別史跡に指定。北貝塚は縄文中期、南貝塚は縄文後期築造と推定。園内には加曽利貝塚博物館、貝塚層見学館、復元集落、旧大須賀家住宅など、様々な遺構や歴史資料が公開されている。平成30年(2018)、加曽利貝塚縄文遺跡公園と改称。以降、正式名称となっている。
 園内を進むと北貝塚層見学館がある。博物館・資料館には貝塚の断面の展示があるが、ここは実物の展示、しかも大規模と迫力が違う。その東方に住居跡群観察施設がある。貝塚の底部から発見された実物の住居跡である。展示面では学芸員さんが作業していた。表面に生えたコケを除去しているという。
 そこから南下し加曽利貝塚博物館へ。昭和41年(1966)に開館した加曽利貝塚公園の中心施設、市立の歴史博物館である。加曾利貝塚からの出土品、縄文人の生活の遺構などが展示されている。ここも入館無料だ。
 さらに南下し旧大須賀家住宅へ。下総国千葉郡幕張町にあった元禄年間(1688-1703)築の茅葺き代官屋敷を移築・屋根を金属板貼りとして復元、保存・公開した。そこから北上、南貝塚域内にある復原集落へ。縄文時代の住居・倉などが復原・展示されている。公園の北西口に戻り、桜木駅に向かう。

b0327-6 加曽利貝塚①

b0327-7 加曽利貝塚②

b0327-8 加曽利貝塚③

5. ペリエ千葉エキナカ、富田麺業
 桜木駅から千葉モノレール千葉港駅行に乗り20分弱、千葉駅で下車する。千葉駅は長らく改装工事が続いており、構内もややこしい印象であったが、平成30年(2018)改装工事が竣工し、諸施設も全面開業した。ペリエ千葉は改札内外に分かれた商業施設である。ここに松戸市のラーメンの名店、ラーメンデータベース1位となった、とみ田の直営店・富田麺業が出店しているという。
 念のため、改札外にあるペリエ千葉・案内所で訊くと富田麺業は改札内・ペリエ千葉エキナカ・上層階にあるとのこと。早速、改札内へ。店内はほぼ満席であったが、夕食には早めの時間帯、行列なしに入店できた。自販機でつけ麺を購入。浅黒い太い麺が、濃厚な魚介系出汁に良くからむ。やはり本家は製麺業っだと感心した。富田麺業の味に満足し、千葉駅から帰路についた。
 
b0327-9 富田麺業
 

所 感
 3月に入っても寒暖の差が厳しい日々が続いた。この日は比較的暖かく、桜の開花促進を期待した。東京・靖国神社のソメイヨシノ標準木の開花は3月21日、通常7日後に見頃になるというが、当地の桜は数日遅れだったようだ。
 七天王塚、古墳とは確認できていないが、都市の中に残された、貴重な史跡だ。加曾利貝塚公園、千葉市には特別史跡に指定された加曾利貝塚の他、11件の貝塚が国の史跡に指定されている。圧倒的な数である。展示も現物中心で、それを維持する努力も見ることができた。        (幹事・柳沢記)

旅たび倶楽部 第63回部録

2019.02.23.10:11

安中市の史跡と古墳群を巡る

2019年2月20日(水) 晴れ  

 今回の訪問地は、碓氷峠の東側にあたり、古来、信州と関東平野を結んだ交通路の要衝であった。いわば、戦略的な土地柄であり、軍事・文化・商工業にまつわる遺構も多い。このコースの面白味は、各所で多彩な時代の史跡が重層的に見られることだろう。古墳の観点からは、巨大古墳こそ見られぬものの、簗瀬二子塚周辺の史跡群、新島襄旧宅内の古墳、古墳と江戸時代の史跡が町内に点在する安中市内中心部など、興味深い見所は多い。

参加者: 柳沢道生、野崎芳信

集合写真:  簗瀬二子塚古墳にて 

b0220-0 集合


1.信越線磯部駅~信照寺
 朝9時1分、大宮駅発高崎線快速アーバンに乗車、10時12分高崎駅着。10時22分高崎駅発、信越線普通電車に乗る。本来はこの電車の先頭車両で集合の予定であったが、大宮駅で発車待ちをしているアーバンの車窓から、たまたまホームを通りかかった野崎さんを発見、という幸運なハプニングがあった。
 信越線電車の車窓から遠望した、雪の浅間山が美しい。10時41分に磯部駅着、下車する。駅前広場の先のアーケードに「歓迎・磯部温泉」の文字。
 我々は温泉街とは逆方向の、駅の東へ。数分歩くくと真言宗の寺院、信照寺がある。慶長年間(1596-1615)、当地を所領していた下曽根信正が父の菩提寺として創建したと伝わる。門前に古い石碑が並ぶ。一際大きい百番塔は、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の巡礼達成を記念して造立された碑。江戸後期より東国を中心に広まったという。

b0220-0B 磯部駅

b0220-0C 信照寺

2. 磯部古墳群
 信照寺から北に数分歩くと磯部交差点、ここから県道46号を東に向かう。徒歩7~8分、最初の信号を右折するとフェンスに囲まれた円墳が見える。径約30m、安中市西部磯部地区、碓氷川と柳瀬川の間の丘陵に分布する磯部古墳群の西端に所在している。築造年代はいずれも不詳である。そのすぐ東側に径約15mの円墳・西浦古墳がある。墳丘には古い石祠と石碑が残る。
 集落内の道を東に数分歩けば古い墓地がある。墓地の奥が隆起している。径約15mの円墳・寺前東古墳である。遠目には墓地と一体化している。
 さらに集落内を東に進み、左折すれば中磯部住民センターがある。構内の独立樹に案内板があった。市の天然記念物・磯部神明宮のヒイラギとある。推定樹木250年超、かつて当地に鎮座していた神明宮の神木であったとも伝わる。その背後に径約20mの円墳・神明北古墳がある。その傍らには道祖神など古い石碑が並び、ささやかな史跡公園を形成している。
 住民センター北側にある磯部小学校東側を北進すれば県道48号に出る。西に数分歩くと松岸寺への参道がある。松岸寺の山号は磯明山、曹洞宗、天歴6年(952)創建と伝わる。お参りし、門前の道を東進し、北上すれば碓氷川に架かる、やなせ大橋に出る。碓氷川はかなり深い渓谷を形成している。

b0220-1 磯部9号墳-西浦古墳
 
b0220-2 寺前古墳-ヒイラギ

b0220-3 神明北古墳-松岸寺
 
3. 簗瀬二子塚古墳周辺
 やなせ大橋から北上する緩い坂を上ると、左手に草で覆われた丘が見えてくる。簗瀬二子塚古墳である。さらに進むと右側に簗瀬二子塚古墳ガイダンス棟がある。古墳見学前に立ち寄る。簗瀬二子塚古墳は碓氷川中流の右岸段丘に築かれた全長約80mの前方後円墳、築造時期は6世紀初頭と推定されている。明治12年(1879)、所有者であった小森谷家により、学術調査が行われ、石室の発見とともに多くの出土品を得た。これらは小森谷家の家宝として継承され、市の文化財に指定されている。かつて、墳丘は深い森であったが、現状は古墳公園として整備され、国の史跡に指定されている。
 古墳公園へ。前方後円墳の形状がよく分かる、バランスのとれた美しいフォルムだ。全容が見渡せる案内板の前にて集合写真。後円部の横側に石室開口部があったが、ガラスが曇って内部は窺えない。後円部の墳頂へ。北側に見える雪の浅間山の山容、前方部の延長線上には妙義山、眺望も素晴しい。
 古墳公園の南西隅に社がある。案内板に簗瀬八幡平首塚とある。径約21mの円墳、6世紀後半築造と推定。昭和6年(1931)、中世の頭骸骨約150体が出土した。永禄4~7年(1561-64)、上州に侵攻した武田信玄と地元の領主・安中氏との合戦があった。だが、関連を示す史料は無いという。首塚の西方、徒歩5分ほどの所に、武田軍が安中氏の拠点、安中城と松井田城分断のため築いた八幡平陣城跡がある。碓氷川段丘上の林の中、遺構は何も残っていない。
 古墳公園に戻る。東側に真下明神の社がある。その基盤は簗瀬二子塚古墳の陪塚・円墳との見方もあるという。ここも気になる個所である。

b0220-4 二子山古墳G棟-妙義山
 
b0220-5 浅間山-首塚

b0220-6 陣城跡-真下明神

4.箕輪城跡~原市
 簗瀬二子塚古墳ガイダンス棟北側の道を東に進む。4~5分で前方に森が見えてくる。城山稲荷神社である。境内への通路の脇に箕輪城跡の標柱がある。当地には碓氷川の渡河点確保のため、安中氏により箕輪城が築かれた、社殿後方の土塁はその遺構だ。城山稲荷が遷座されたのは文化年間(1804-18)のことである。本殿はその時期に。拝殿は文政6年(1823)に建立された。
 城山稲荷神社から北東に数分歩けば県道48号に出る。北上すると原市交差点、その西南側にある商業施設駐車場の南側に旧碓氷社事務所がある。明治時代、生糸が基幹産業であった頃に結成された、上州の生糸産業を代表した、座繰り製糸の組合で、輸出に耐える品質の生糸を生産した。明治38年(1905)築,木造二階建建築。県の文化財に指定されている。
 商業施設北側の国道18号を西に進めば碓氷病院入口交差点、ここを北上した最初の信号で旧中山道と交わる。原市は中山道安中宿と松井田宿の中間にあたり、立場・休憩所や高札場もあったという。旧中山道を西に少し行けば、ラーメン店「あってりめん」がある。主人はTV番組・北野印度商会出身、有名店のようだ。麺が売り物とのことで、油まぜソバを頼んだ。太目の麺が旨い。

b0220-7 城山稲荷-箕輪城跡

b0220-8 旧碓氷社-旧中山道

b0220-9 あってりめん

5. 小林良曹アトリエ館~新島襄旧宅
 先程の道に戻り北上すれば碓氷病院がある。碓氷病院前バス停からアークバスに乗り、旧中山道を東進し7~8分、安中消防署前で下車する。消防署東側の道を南下し徒歩3分ほど、前方に茅葺き民家が見えてくる。行って見れば「小林良曹アトリエ館」の案内板があった。小林良曹(1910-99)は安中市出身の洋画家。息子さんが良曹のアトリエであった土蔵を展示室に改装し、冬期を除く金・土・日曜日に開館している。茅葺き民家は小林家の主屋である。
 東に3分ほど歩くと新島襄旧宅がある。同志社の創設者・新島襄(1843-90)は安中藩士の子息として神田の安中藩江戸上屋敷で生誕、茅葺き主屋の旧宅は父母の郷里の住まいであった。庭に回れば何と円墳がある。安中6号墳、規模・築造年代とも不詳だが、石室が露出し、奥には稲荷社の小祠が祀られている。墳丘や周囲には多くの文学碑・石碑がある。その一つ、「漆園の記碑」は安中藩主板倉勝明が安政3年(1856)に百万本の漆の苗木を植え、その利益配分を刻した碑。新島城旧宅と漆園の記碑は市の史跡に指定されている。
 
b0220-10 小林良曽アトリエ館
 
b0220-11 新島旧邸①
 
b0220-12 新島旧邸②

6. 愛宕神社~大名小路
 安中消防署前に戻り、旧中山道を東進する。徒歩数分、北側に愛宕神社が鎮座している。元禄年間(1688-1714)創建、火防守護の神として崇敬されてきた。社殿は愛宕山古墳上に建立されている。古墳は50m程の規模と推定されるが、石段や石垣などの造営で改変が著しく、形状・築造年代とも不詳である。
 愛宕神社の前、旧中山道の一本北側の道を東に歩く。4~5分歩くと前方に煙突が見えてくる。天保3年(1832)創業の天然醤油醸造業・有田屋のシンボル、赤煉瓦の煙突である。この道の右側が店舗、左側が工場である。有田屋の経営者・湯浅一族は明治以降、教育・政治・文化に貢献した人材を輩出した。
 さらに東に進む。左手は旧安中高校、その東端で一本北の道に入り、東に進めば前方に塚の上の赤い社が見えてくる。安中4号墳、規模・形状不詳だが、近づいて見れば社の下に石室開口部と推定される穴がある。社は稲荷社である。
 塚の東側は長徳寺の墓地。その北側の路地を道なりに歩けば、通りに出る。その東方向に茅葺き建築が見える。旧安中藩武家長屋、江戸末期築と推定、中下級武士が居住した茅葺き四軒長屋。市の文化財に指定。その東側、交差点の先にもう一棟の茅葺き建築がある。旧安中藩郡奉行役宅、藩内の民政を担った上級武士・郡奉行の役宅を、古文書に基づき平成6年(1994)に復元した。茅葺き曲屋様式。市の文化財に指定されている。
 通りをまたまた東に。付近の案内板によれば、この通りの愛称は大名小路という。この北側一帯に安中城があったとある。現在、大名小路の北側には、安中小学校があり、その校門前に安中城跡の石碑が立っている。

b0220-13 愛宕神社-煙突
 
b0220-13B 安中町4号墳-長屋

b0220-14 奉行役宅-城跡碑

7.安中教会~安中駅
 安中小学校の東側、大名小路の両側に安中教会がある。敷地北側の礼拝堂・新島襄記念堂は、新島襄没後30周年を記念し大正9年(1920)竣工、ゴシック様式大谷石造鐘塔付教会建築。敷地南側の、同年築の温古亭、昭和10年(1935)築の義圓亭、昭和29年(1954)築の牧師館などとともに国の有形文化財に登録されている。
 安中教会の東側に旧碓氷郡役所がある。 明治41年(1902)築、木造平屋建寄棟造瓦葺き。大正15年(1920)郡制廃止に伴い碓氷郡議会などに転用。県内に残る唯一の郡役所建築、現状は資料館として公開。市の文化財に指定されている。
 旧碓氷郡役所から南下し旧中山道に出る。この界隈に中山道六十九次、江戸日本橋から15番目の宿場町・安中宿の本陣があった。東に歩けば伝馬町バス停、ここからアークバスに乗り、5~6分で終点の安中駅に着く。
 ホームに入り、16時17分発の信越線高崎行電車を待つ。南側の斜面には東邦亜鉛㈱安中製錬所がある。駅構内の側線には近年珍しくなった同社専用線のディーゼル機関車や同社私有貨車が留置されていた。気が付けばホームは家路に着く高校生だらけとなっていた。程なく高崎行の電車が入線してきた。高校生専用電車みたいな雰囲気の車内だったが、我々も家路に向かった。

b0220-15 教会-郡役所
 
b0220-16 安中駅

所 感
 元々、この行程は1月16日に予定していた。あいにく、当日は小生が風邪気味で、インフルエンザ流行が報じられていたこともあり、大事をとって2月に延期していただいた。当日は、今年最高の20度近くの気温が予報され、実質的な初歩きに、防寒ならぬ防暑対策を講ずる異例の展開となった。実際には、昼頃に上着とセーターを脱いだものの、午後からは程良い陽気となった。
 安中市は以前、茅葺き建築巡りを目的に、訪れたことがある。今回、古墳という観点で再訪した印象は遥かに深いものであった。中でも、旧安中藩武家長屋や旧安中藩郡奉行役宅の周囲の掲げられていた「サムライマラソン」の青い旗、安中藩の故事に基づいた映画だという。史跡が、過去の分断された点ではなく、連綿とした流れの一節であることを、改めて認識した。    (幹事・柳沢記)





旅たび倶楽部 第62回部録

2018.12.16.16:40

三浦半島の史跡と古墳群を巡る

2018年12月13日(木) 晴れ後曇り  

 今回は三浦半島に点在する古墳群と史跡を巡った。三浦半島には、古くから横穴墓の存在は知られていたが、大型古墳群は存在しないとされていた。大正13年(1924)、故赤星直忠博士が横須賀市池田町の大塚古墳群を発見。また、昭和27年(1952)の発掘調査で直刀、刀子、鉄の鏃、耳環、須恵器などが出土した。さらに、平成11年(1999)、逗子市桜山と葉山町長柄(ながら)の境界の丘陵に、大型前方後円墳2基が分布する長柄桜山古墳群が発見され、全長約90mの1号墳は神奈川県内最大の前方後円墳であることが確認された。

参加者: 柳沢道生、野崎芳信

集合写真:  大塚復元古墳 後円部墳頂にて

b1213 大塚再現古墳-集合
 

1.三浦海岸
 朝10時前、横浜駅京急中央改札口に集合。京急特急に乗り1時間弱、三浦海岸駅に着く。バスはかなり待ち時間があったので、タクシーで白山神社へ。
 鎌倉時代に三浦一族の武将・菊名左衛門重氏が加賀国一宮・白山比咩神社を勧請し、白山宮として創建と伝わる。社殿の裏手に通称・白山古墳、正式名称・切妻造妻入形横穴古墳があり、市の史跡に指定。切妻造妻入形とは横穴墓の形状を民家の建築様式に見立てた命名。奈良時代築造と推定されている。
 久しぶりの好天、三浦海岸を歩き駅に向かう。対岸の内房の山並、鋸山の山容が良く見える。浜辺に木枠が組まれ、大根が干されていた。大根も待ちわびた日差しを楽しんでいるようだ。馬が数頭、これから浜辺を乗馬で散歩するのだろう。徒歩約20分、三浦海岸駅に戻る。
 
b1213-1 白山神社

b1213-2n 三浦海岸

2. 津久井浜
 三浦海岸駅から京急久里浜駅方向へ1駅、津久井浜駅で下車。駅の東側、北東方向へ徒歩約5分、万代(まんだい)会館へ。旧帝国銀行の頭取・会長を歴任した岡山県出身の銀行家・万代順四郎氏 (明治16年/1883~昭和34年/1959)の邸宅を順四郎氏夫人・トミさんの遺志により横須賀市に寄贈。約4千平米の敷地に庭園と、邸宅を構成する竹・梅・椿と命名された三棟の小振りな茅葺き家屋が保存されている。邸内を散策し、津久井浜駅に戻る。

b1213-3 万代会館
 
3. 久里浜
 津久井浜駅から横浜方向へ3駅、京急久里浜駅で下車。東口の駅前商店街を歩く。お目当ての「まぐろ工房はっとり」が、たまたま休業だったので、酒蔵・一升屋のランチタイムへ。店頭の看板を見て、野崎さんはゴジラカレー、私は地魚のっけ丼と黒船汁のセットを注文。地魚のっけ丼は久里浜食の祭典グランプリ受賞作とのこと。マグロの代替で久里浜の地魚を味わう。
 京急久里浜駅はら京急バス・湘南山手行に乗り約5分、山手南口で下車。南~南西に徒歩約7分、小公園に大塚復元古墳がある。大正13年(1924)に発見された大塚古墳群は昭和60年代、区画整理事業により消滅の危機に直面し、主墳・1号墳、全長約31mの前方後円墳、別称・大塚古墳は、元の地の南西に約80m離れた現在地、横須賀市立大塚台小学校東側に移築・復元され、大塚復元古墳と呼ばれている。後円部にあった主体部跡や周濠跡まで復元されている。
 先ほどのバス通りに戻り、坂を下った山手入口バス停から、京急久里浜駅行・京急バスに乗り、終点の一つ手前、JR久里浜駅で下車する。

b1213-4 一升屋

b1213-5 大塚復元古墳

4. 逗子、蘆花記念公園
 久里浜駅から横須賀線に乗り約10分、逗子駅へ。東口のバス乗場から、京急バス・海岸回り葉山行に乗り約5分、富士見橋バス停で下車する。
 バス停の南、道路の東・山側に大きな石碑が2基並んでいる。右側の碑には「蘆花・独歩ゆかりの地」と刻されている。かつて当地に柳屋という旅館があり、文豪・徳冨蘆花や国木田独歩が滞在し、創作拠点として執筆活動を行った。
 碑の脇の路地に入り、すぐ左折すれば旧脇村邸がある。昭和9年(1934)に大正期の三井物産常務・藤瀬政次郎の未亡人・秀子の別荘として建設、後に経済学者東大教授、脇村義太郎が取得した。市の文化財に指定。当地を含め、東側の桜山山麓は、徳富蘆花を顕彰して、蘆花記念公園と命名されている。
 先程の路地に戻り、南東に向えば案内板があり、その先に階段・坂がある。登ればところどころに、蘆花作品の一節を記した木板がある。登った先には逗子市郷土資料館がある。徳川宗家16代目・徳川家達の別荘、大正元年(1912)築を改装し、昭和59年(1984)に開館した。現在は休館中。庭先から逗子湾を眺望する。江ノ島まで見渡せるが、館内の案内板の写真にはその先に富士山の威容が見える。あいにく、当日は江ノ島の後方には雲がかかっていた。残念。

b1213-6 柳屋跡-脇村邸

b1213-7 郷土資料館

5. 逗子・葉山、長柄桜山古墳群
 郷土資料館の裏手から長柄桜山古墳群2号墳に至る山道がある。長柄桜山古墳群は逗子市南部桜山地区、三浦郡葉山町長柄との境界の標高50~120mの低丘陵に2基の大型前方後円墳が分布、国の史跡に指定されている。
 山道は急な階段が続き結構きつい。4~5分登れば尾根道に出て、その先に案内板が見える。長柄桜山2号墳、全長約88mの前方後円墳、4世紀後半築造と推定。山を削って成形した後に盛土をして築造。前期古墳では珍しい葺石が使用されている。案内板からの小径を登り前方部へ、逗子湾の眺望が良い。後円部から続く小径を降りれば、遊歩道・ふれあいロードに出る。
 ふれあいロードを東に7~8分歩けば長柄桜山1号墳がある。平成11年(1999)3月、葉山桜山団地西側の山頂で、携帯電話の中継基地建設工事の際、埴輪片が発見され、調査の結果、当地が前方後円墳であることが判明した。全長約90mの前方後円墳、神奈川県最大の古墳である。4世紀後半築造と推定。現在、前方部の片側、後円部全体が補修工事中であった。
 長柄桜山1号墳から下れば葉山桜山団地に出る。道の脇には工事資材運搬用モノレールが敷設されていた。葉山桜山団地内を東に徒歩約10分、葉桜バス停に出る。葉桜バス停から京急バス逗子駅行に乗り約5分、終点で下車する。

b1213-8 長柄桜山2号墳

b1213-9 長柄桜山1号墳

5. 逗子駅前
 16時45分頃に逗子駅着、夕食をと考えていた、さかな食堂の開店は17時、まだ時間がある。まず、駅前広場の南側にある魚屋・魚佐次へ。ここで、土産その1・魚介類を購入。さかな食堂は1階に魚佐次のある魚佐次ビルの3階にある。
 次いで、なぎさ通り商店街をそぞろ歩き、三河屋酒店の店頭に『逗子』という銘柄の日本酒を発見。見れば伊勢原酢の蔵元・吉川醸造の製造。ラベルに「神奈川の酒」とある、まあいいか、と購入。時間も程良く、魚佐次ビルへ。
 エレベータで3階、さかな食堂へ。浜焼き居酒屋と銘打っているが、内装はカフェ風。お兄さんが「本日のマル得」の書かれた黒板を持参、マル得のMiXフライ、魚佐次で気になっていたスズキの刺身、飲み物はこれもマル得、開店から19時まで、最初の1杯は半額だという。MiXフライとスズキの味もマル得であった。夕食を堪能した後逗子駅に出て、始発の湘南新宿ラインで帰宅する。

b1213-10 魚佐次

b1213-11n さかな食堂

所 感
  前日まで、曇りや雨の肌寒い日が続き、TVの気象情報で「洗濯に困る」と言っていたが、当日は9日振りの本格的な晴天であった。
 古墳巡りを始めた頃、三浦半島と前方後円墳の結びつきが良く理解できなかった。しかし、古代の東海道が、三浦半島を経由して、対岸の現・市原市に繋がり、その市原市に上総国国府・国分寺が置かれた。その南方の富津市に巨大古墳群が分布している。考えれば、そこに至る道中に、神奈川県最大の前方後円墳が所在していることも、不思議ではないのかも知れない。
 長柄桜山1号墳が補修工事中であったのは、残念だったが、工事完成後にもう一度来てみたい、と思わせてくれる様な道中であった。   (幹事・柳沢記)




旅たび倶楽部 第61回部録

2018.11.23.20:34

栃木市 蔵の街・街歩きと古墳群を巡る

2018年11月18日(日) 晴れ  

 栃木市は江戸時代、日光例幣使街道の宿場で、利根川水系渡良瀬川支流の巴波川(うずまがわ)水運の拠点でもあり、商業都市として繁栄した。第二次大戦の戦禍を免れたこともあって、蔵造り商家をはじめとする多くの歴史的建造物が残り、川越、佐原と並んで、蔵の街・小江戸と称されている。
 今回は、栃木市の蔵の街エリアを散策し、その後に栃木市南部、大平町・藤岡町に分布する古墳群を巡るコースをたどった。

参加者:  岩瀬 翠、柳沢道生、野崎芳信
      コエド市場~栃木駅まで

集合写真:  塚田伝説歴史館・蔵の街遊覧船乗場前にて

b1118-0 集合

1.栃木駅~蔵の街遊歩道
 10時15分頃、栃木駅東武線改札口に集合。駅北口から北に歩くと3~4分で路傍に木製の例幣使道 東山道の道標が立っている。状態は良くない。さらに北上すればカトリック栃木教会が見えてくる。大正時代築、尖塔を有する歴史的建造物である。その先の小公園に、蔵の街遊歩道の入口がある。
 蔵の街遊歩道は水路沿いに北に向かう。水路は瀬戸ヶ原用水、巴波川の分流で、その先にある瀬戸ヶ原堰で分水されている。瀬戸ヶ原堰の北側、巴波川に野鴨の群れが遊弋していた。近くの菓子店・せきね の前にエサの無人販売があった。エサを川面に蒔くと、鴨もきたがそれよりも鯉が群がってきた。鴨には食べにくいサイズなのか、次第に鴨は少なくなっていった。 

b1118-1 教会-遊歩道
 
b1118-2 堰-鴨


2. 蔵の街遊覧船
 瀬戸ヶ原堰から徒歩2~3分、巴波川の東岸に白壁の蔵が連なっている。塚田伝説歴史館、江戸後期から巴波川の水運を担ってきた木材回漕問屋・塚田家の蔵屋敷を改装した資料館である。その一隅に蔵の街遊覧船の券売・待合所があり、川岸に乗場がある。散策グループ何組かで乗船、定員21名の船に19人とほぼ満席。船頭さんが竿を操り船が動き、口上とともに北側の宝来橋に向かう。川岸に羽を休めていた鴨が集団で寄ってくる。船べりには鯉の群れ、丸々と太った鯉も多い。ともに待合所で売っていたエサが目当てだ。船頭さんの解説によれば、ここで見られる鴨はカルガモ、オナガガモ、チトセガモの3種。やがて前方に宝来橋、川幅に対して船が長く、旋回には熟練が要るそうだ。
 旋回した船は南下、瀬戸ヶ原堰に向かう。鴨も鯉をついてくる。瀬戸ヶ原堰の手前で再度旋回し、船着場に向かう。最後に船頭さんの『栃木河岸船頭唄』で約20分の船遊びは終わった。長時間ではないが、乗船料700円で充分楽しめた。

b1118-3 遊覧船①
 
b1118-4 遊覧船②
 
3. 蔵の街遊歩道~とちぎ蔵の街美術館
 蔵の街遊歩道に戻りさらに北上、塚田伝説歴史館を背景に晴着の撮影中であった。さらに進めば左手に石造の蔵があり、その先に伝統的商家建築がある。横山郷土館、江戸時代から麻問屋を営み、明治時代に銀行を兼業した横山家の蔵屋敷を改装した資料館で、国の有形文化財に登録されている。
 その先で左折すると行く手に洋館が見える。旧栃木市役所別館である。明治6年(1873)~明治16年(1883)、当地一帯に栃木県庁が置かれた。現状、その遺構は周囲に巡らされた県庁堀で、県の文化財に指定されている。
 来た道を戻り、巴波川を渡った先を南下すれば、灰褐色の蔵が三棟並んでいる。とちぎ蔵の街美術館、江戸後期築の善野家土蔵、通称・おたすけ蔵を改装した美術館で、市の文化財に指定されている。

b1118-5 郷土館
 
b1118-6 堀-美術館

4. 蔵の街大通り・栃木市役所付近
 県庁跡からの道に戻り、東に歩けばすぐに県道11号・旧例幣使街道に出る。この一帯は蔵の街大通りと呼ばれる観光スポットだ。通りの東側を北に進むと、とちぎ歌麿館がある。旧古久磯提灯店見世蔵を改装し、度々当地を訪れ、創作活動を行った江戸中期の浮世絵師・喜多川歌麿に関る資料を展示している。館長が歌麿と栃木市の関わりを説明してくれる。折しも斜め向いにある栃木市役所で歌麿作品の複製が展示されているという。残念だが時間の都合で割愛する。
 南下すれば、「路傍の石」などの作者・大正~昭和期の作家・山本有三(1887~1974)が生誕した商家を改装した山本有三ふるさと記念館がある。建物は明治期築の切妻土蔵造二階建てで、国の有形文化財に登録されている。

b1118-7 歌麿館
 
b1118-8 ふるさと記念館

5. 蔵の街大通り・蔵の街観光案内所付近
 その先には大正12年(1923)築の旧安達呉服店、木造二階建洋館を食事処に改装、国の有形文化財に登録されている好古壱番館がある。ここで昼食、栃木名物ジャガイモ入り焼きそば、牛蒡餅とオリジナル白ワインをいただく。
 南隣には赤煉瓦造の蔵などを改装した民間の美術館・あだち好古館、さらに南には土蔵を改装した蔵の街観光案内所がある。
 通りの向いには明治中期築、黒漆喰塗りの蔵造商家・佐藤家住宅店舗があり国の有形文化財に登録されている。歴史的建造物が多い地区である。
 蔵の街観光案内所の南に隣接し、とちぎ小江戸ブランド認定の農産物・菓子類・加工食品・工芸品等を販売しているコエド市場で買物し、すぐ前にある観光協会前バス停から、市営ふれあいバス・市内循環線で栃木駅に向かう。
  
b1118-9 好古壱番館
 
b1118-10 観光案内所

5. 栃木市大平町の古墳群
 栃木駅から岩瀬さんは東武線で帰路に、野崎さんと私は両毛線で高崎方面次の駅、大平下で下車。駅から線路沿い、北東に約6分歩き、踏切を渡って約7分、左手の路地に下皆川将門霊神古墳への案内板がある。路地を入ると民家の裏山に下皆川将門霊神古墳がある。別称・中山古墳、径約6mの円墳、6世紀初頭築造と推定される。平将門の墓という伝承がある。藪に覆われ墳形は定かではないが、石室開口部が残っている。旧大平町文化財に指定されていた。
 元の道に戻り北東に歩く。周囲はブドウ園、昼のワインも原料もこのあたりの産か。徒歩約5分、福祉施設・みどりの郷の裏手に下皆川マガキ第1号古墳がある筈だ。旧大平町文化財指定なので案内板などあろうかと探すが見当たらない。やむなく、来た道を戻り、大平下駅に向かう。
 大平下駅から南西に徒歩約5分、大平下小学校前に富田城址の案内板がある。そこから南に徒歩10数分、県道11号沿いに玉正寺がある。山号は光明山、真言宗豊山派、大同年間(806-09)創建、天慶元年(938)再建と伝わる古刹である。
 天正寺南側の道を西に数分歩くとオトカ塚古墳が見えて来る。全長約58mの前方後円墳、6世紀初頭築造と推定。オトカとは俚言で狐の意だという。
 東に戻り、県道11号を超えれば旧例幣使街道に出る。約5分北上すれば、旧富田宿本陣跡、その近くにある栃木信金大平町支店前でバスを待つ。
 
b1118-11 下皆川

b1118-12 玉正寺

6. 栃木市大平町伯中(はくちゅう)、藤原町蛭沼の古墳
 ふれあいバス部屋線に乗り約20分、三横(さんよこ)研修所前バス停で下車。すぐ前の畑の中に古墳が見える。伯仲古墳、全長約40mの前方後円墳、別称・長山古墳、伯仲1号墳。古墳時代後期築造と推定。大平町伯仲と藤岡町蛭沼の境界付近、巴波川右岸の低台地上に分布する伯仲古墳群の主墳である。この古墳は大平町伯仲の南端に所在し、市の史跡に指定されている 
 南に徒歩7~8分、神倉神社手前で東に歩き県道25号を超え約5分、山王寺大桝塚古墳がある。全長約96mの前方後方墳、4世紀後半築造と推定。前方部は墓地となり、かなり改変されている。墳上に、今は廃された山王寺があったことが、名の由来だという。これも市の史跡に指定されている 

b1118-13 伯仲-山王寺古墳

7.栃木市藤原町蛭沼 蛭沼古墳群
 県道25号を南下すれば徒歩7~8分で右手前方に古墳が見えてくる。径20mの円墳・本郷古墳である。築造年代不詳、伯仲古墳群、山王寺大桝塚古墳南方の低台地上に分布する蛭沼古墳群の東端にある。
 本郷古墳のすぐ南、蛭沼交差点から西進する県道50号を徒歩数分、左側に古墳がある。径約25mの円墳、長島塚古墳である。築造年代不詳、民家の庭先に所在し、墳頂に祠が祀られ、群の中程に位置している。
 さらに西に進むと、県道右手に古墳がある。蛭沼愛宕塚古墳、群の西端にある径約40mの円墳、築造年代不詳、墳上に愛宕社の祠があり、墳丘南側は県道50号によってかなり削られ、愛宕社の幟が並んでいた。
 県道50号を戻り、長島塚古墳の先の旧道を左折し、蛭沼バス停へ。本郷古墳が良く見える。傍らには馬頭観音など素朴な石碑が三基並んでいた。
 そこからふれあいバス部屋線で東武線・新大平駅へ。東武線で栃木駅に出て駅前で夕食をとり、栃木駅から東武線特急で帰路に着いた。

b1118-14 本郷-長島塚古墳
 
b1118-15 愛宕塚古墳-馬頭観音

所 感
 前日、18時30分から日テレの『満天☆青空レストラン』を観ていたら、栃木市巴波川の蔵の街遊覧船が紹介されていた。くいいるように観続けた。この日の食材は、ご当地伝統野菜「宮ねぎ」であった。一時は絶滅の危機に瀕したが、地元の農業高校の協力もあり、復活したという。ズングリとした形状で、味は濃く甘味があるという。栃木市は何度か訪れたが、初めて聞いた野菜だ、
 「どこかで買えればお土産に」と思って出かけた。コエド市場の店頭に1束330円で山積みされていた。即、購入した。少々かさばったが、ズングリが好都合だった。家に帰ってナベと焼きネギなどで楽しんだ。文字通り、旅の味わいであった。                        (幹事・柳沢記)      


 
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