旅たび倶楽部 第65回部録
2019.04.12.15:00
足立区の花見と古墳・遺跡散策~新橋食事会
2019年4月9日(火) 晴れ
今回は、奈良県在住の飯降昌吾さんが久しぶりに東京にお越しになる、ということで、かつて食事会を催した新橋・鴻運での食事会を設定した。その前に、近場で古墳・遺跡と桜がほどよく見られそうな足立区のコース散策を提案し、ご同意を得て催行に至ったものである。
参加者: 柳沢道生、飯振昌吾、野崎芳信
集合写真: 白旗塚史跡公園、白旗塚古墳にて

1.東武線竹ノ塚駅前~東岳寺
前日、東武バス逆走のニュースが報道された。現場は竹ノ塚駅西側の信号付近。11時に竹ノ塚駅に集合した一行は早速現場を見に行った。下の写真左は事故で有名となった、開かずの踏切である。現在は高架が開通し通過列車は高架を通るが、駅施設は地上に残り踏切は現役だ、この踏切が引き起こす渋滞が逆走の要因である。下の写真右の道路先鋒から来るバスの一部は信号で左折する。このとき渋滞の車列が信号を超えていれば、信号までの間逆行する場合があったという。地元住民によれば、月に数例あったという。
現場から北西に歩き、尾竹橋通りへ。通りを北東に3分程歩けば東岳寺がある。山号は南昌山、曹洞宗系単立寺院である。慶長18年(1614)浅草に創建。後に当地に移転。『東海道五十三次』などの作者・初代安藤広重の墓と記念碑があり、都の文化財に指定されている。広重の命日、毎年・9月6日には広重忌と記念展覧会が開催、寺宝の安藤広重作品などが展示 されている。


2. 白旗塚史跡公園
東岳寺から尾竹橋通り絵尾北東に5~6分、西側に東武バス足立営業所があり、その策に交差点がある。それを東に徒歩数分で白旗塚史跡公園がある。
足立区北端を流路とする毛長川南岸に分布する伊興古墳群に属する径約25mの円墳・白旗塚古墳の周囲を整備した歴史公園。白旗塚古墳は5~6世紀築造と推定、周濠が復元され、都の史跡に指定されている。文化・文政期(1804-29)に編まれた新編武蔵風土記稿に、源義家が奥州征伐時に当地で白旗をなびかせ戦ったとの逸話が、白旗塚の名称の由来との記事がある。園内の桜もまさに見頃であった。白旗塚古墳を背景に集合写真を撮る。

3. 伊興寺町、常福寺と易行院
先程の交差点に戻り、尾竹橋通りを渡った先の路地を西に入れば伊興寺町がある。足立区東伊興一帯は震災や戦災を契機に、浅草など東京下町から移転した寺院が集まり、伊興寺町と通称されている。
石畳の路地を西に進めば、佛名山常福寺、浄土真宗大谷派の寺院がある。建保4年(1216) 常陸国那珂郡に創建、慶長元年(1656)浅草に移転。震災後、本堂と墓地、戦災後全施設が当地に移転した。境内の桜が美しい。墓地の入口に、海老名家・先代林家三平の墓所があり、お参りする。
すぐ北側に易行院、山号は日照山、浄土宗の寺院がある。文亀年間(1501-03)浅草に創建、震災後の昭和3年(1928)当地 に移転。入るとすぐに歌舞伎の主役・助六の塚がある。当院の文化年間(1804-18)の過去帳に、俗名・戸沢助六の記事があるという。また、当院は先代・三遊亭圓楽の実家で彼の生前墓だった墓がある。ともにお参りする。著名落語家の墓所が隣接するのも珍しい。


4. 伊興遺跡公園~淵の宮氷川神社
伊興寺町の西端を北上すれば、すぐに伊興遺跡公園がある。淵の宮氷川神社を北限として南北660m、東西690mの広がりを有する縄文~平安時代に至る、区内最大級の複合遺跡・伊興遺跡の一部を整備した歴史公園。園内の弥生時代の方形周溝墓、復原竪穴式住居などが復元・展示され順次見学。次いで縄文~古墳時代の出土品などを展示している展示館を見学する。
公園北側の通りを西に向えば、すぐ北側に淵の宮氷川神社が鎮座している。別称・伊興氷川神社。創建年代は不詳だが、江戸初期に鷹場などがあり、幕府の直轄地であった渕江領では最古の氷川神社で、渕江領内の総鎮守として崇敬されてきた。当地は古来、水運の要地であったという。後に南足立郡伊興村・竹塚村・保木間村の鎮守社となった。


5.まるか家~入谷氷川神社
淵の宮氷川神社から南下し、西進すれば徒歩5分程の所に蕎麦店・まるか屋がある。昔ながらの街の蕎麦店だ。お品書きのイベリコせいろが気になった。聞けばイベリコ豚で出汁を取った汁に冷や蕎麦を漬けて食すという。珍しいが旨そうな組合わせだ。たのんで見れば汁が成程旨い。今日の天気に合った一品だ。
そこからバスで入谷氷川神社へ向かう予定だったが、道を間違え乗り遅れる。たまたま通りがかったタクシーに乗り、入谷氷川神社と告げると「ここらは氷川神社だらけでねえ」といま一つの様子。「舎人団地南バス停の側」と言うと、すぐに了解。入谷氷川神社付近で下車する。
入谷氷川神社は創建年代は不詳だが、豊臣秀吉の関東攻めの時に白幡を立てたことから白幡八幡と呼ばれ、新編武蔵風土記稿にも八幡社と記載されている。明治初年に現社名に変更。長い参道の先の社殿は、伊興古墳群に属する径約24mの円墳・入谷古墳上に鎮座。入谷古墳の築造年代は不詳、別称・白幡塚古墳、東伊興の白旗塚史跡公園の園内古墳とは異字同音、石碑・案内板には「入谷古墳跡」と表記、区の史跡に指定されている。


6.舎人橋~日暮里・舎人ライナー
入谷氷川神社から住宅地を概ね北に徒歩10分余、東京都と埼玉県の境、東西に流れる毛長川と、埼玉県行田市から東京都足立区まで南北に流れる見沼代用水の交点・舎人橋。見沼代用水は足立区内では本来の役目を終え、見沼代親水公園内の流路となっている。毛長川の南岸には舎人緑道公園の桜並木が続き、見沼代用水・埼玉側にも桜並木がある。桜並木の交点でもあるのだ。
舎人橋から南東に10分程歩くと舎人氷川神社が鎮座。今日三座目の氷川神社、タクシー運転手さんの言葉に納得。正治2年(1200)創建と伝わる古社だ。東に数分、北に数分歩くと日暮里・舎人ライナー・見沼代親水公園駅がある。
日暮里・舎人ライナーは、足立区内の鉄道空白地を解消するため、東京都交通局が平成20年(2008)開業した日暮里駅~見沼代親水公園を結ぶ新交通システム・案内軌条式鉄道である。無人運転のため最前部にも座席がある。ホームで待っていると日暮里駅行が入線。始発駅の優位性で最前席を確保した。


7.舎人公園
見沼代親水公園駅から2つ目、舎人公園駅で下車する。舎人公園は、昭和15年(1940)に設置が決定された防空緑地の用地を、戦後、公共公園として整備、昭和56年(1981)の一部開園以降、整備拡大を続けている都立の総合公園。現状、面積・約51万平米。各種のスポーツ施設とともに、桜の名所としても知られ、毎年花見の時期には「舎人公園 千本桜まつり」が開催されている。2019年は4月6日(土)~7日(日)に開催。当日、9日も桜は見頃であった。園内を散策、園内中央のお花見広場の桜の下のベンチでしばし桜を眺めつつ憩う。
次いで、園内南西のレーガン桜へ。明治45年(1912)に日本が米国に寄贈したソメイヨシノがワシントンのポトマック河畔に植栽され、世界的に有名になった。その後、レーガン大統領夫人が来日した際に贈られた里帰り桜が舎人公園に植樹され、レーガン桜と命名。桜の傍らに経緯を刻した桜植樹記念碑が立つ。
舎人公園駅から日暮里・舎人ライナーで約10分、熊野前駅へ。ここで都電荒川線早稲田駅行に乗換え約10分、荒川遊園駅で下車。線路沿いを西に進み、最初の信号で南下、徒歩約10分の尾久駅に向かう。


8.尾久駅~新橋 鴻運新店
尾久駅は昭和4年(1929)に東北本線の駅として開業。現状は宇都宮線・高崎線の上野駅発着と上野東京ラインのみ停まる。利用者数は日約9,500n人/日、都内のJR駅で下から第3位という、地味な駅である。ここから、上野東京ラインに乗り20分余、7つ目の新橋駅で17時10分頃下車する。
新橋駅日比谷口、SL広場を西に歩き、ヤマダ電機南側の通りを西に向かう。鴻運はネット上に本店と新店が併記され、前回利用した本店を予約したが、ストリートビューで確認したら、本店は見あたらない。念のため新店の位置も確認しておいた。行って見れば本店は無く、新店の予約はOKだった。
いよいよ食事会、まず名物ナスの天プラ、飲み物は紹興酒ロック。次いで、マコモ炒め、蒸し鶏、本店の上海家庭料理の味はしっかり継承されていた。焼餃子に続き、豆腐料理のメニューを見れば、大阪豆腐とある。店員さんに訊いたら由来は不詳とのこと。食して見れば辛味のないあんかけ豆腐。大阪との関連は不明だったが、結構な味であった。宴が続き、やがて皆、帰路に就いた。


所 感
今回2度目の訪問となった所が2ヶ所ある。1つは見沼代親水公園駅付近だ。第10回・2012年9月23日(日) 、東京23区東端~北端、水の史跡をめぐる、と銘打って、東京23区の北端、見沼代親水易公園付近の毛長川北側に張出した足立区舎人4丁目と、埼玉県川口市の境の路地から、水の史跡としての舎人親水公園を巡った。今回は桜がテーマで2座の氷川神社を巡ったこともあり、舎人橋~舎人氷川神社~見沼代親水公園駅のルートを巡った。
前回、2013年9月28日(土)食事会の会場は鴻運本店。今回は鴻運新店なので厳密には2度目で無いかもしれない。ただ、店の雰囲気や味わいもしっかり継承されていた。この点では2度目と言っていいだろう。惜しむらくは本店奥にあった7~8人が使える円卓が無くなったこと。前回の食事会では、ここを利用し、和気あいあいとした宴が楽しめた。 (幹事・柳沢記)
2019年4月9日(火) 晴れ
今回は、奈良県在住の飯降昌吾さんが久しぶりに東京にお越しになる、ということで、かつて食事会を催した新橋・鴻運での食事会を設定した。その前に、近場で古墳・遺跡と桜がほどよく見られそうな足立区のコース散策を提案し、ご同意を得て催行に至ったものである。
参加者: 柳沢道生、飯振昌吾、野崎芳信
集合写真: 白旗塚史跡公園、白旗塚古墳にて

1.東武線竹ノ塚駅前~東岳寺
前日、東武バス逆走のニュースが報道された。現場は竹ノ塚駅西側の信号付近。11時に竹ノ塚駅に集合した一行は早速現場を見に行った。下の写真左は事故で有名となった、開かずの踏切である。現在は高架が開通し通過列車は高架を通るが、駅施設は地上に残り踏切は現役だ、この踏切が引き起こす渋滞が逆走の要因である。下の写真右の道路先鋒から来るバスの一部は信号で左折する。このとき渋滞の車列が信号を超えていれば、信号までの間逆行する場合があったという。地元住民によれば、月に数例あったという。
現場から北西に歩き、尾竹橋通りへ。通りを北東に3分程歩けば東岳寺がある。山号は南昌山、曹洞宗系単立寺院である。慶長18年(1614)浅草に創建。後に当地に移転。『東海道五十三次』などの作者・初代安藤広重の墓と記念碑があり、都の文化財に指定されている。広重の命日、毎年・9月6日には広重忌と記念展覧会が開催、寺宝の安藤広重作品などが展示 されている。


2. 白旗塚史跡公園
東岳寺から尾竹橋通り絵尾北東に5~6分、西側に東武バス足立営業所があり、その策に交差点がある。それを東に徒歩数分で白旗塚史跡公園がある。
足立区北端を流路とする毛長川南岸に分布する伊興古墳群に属する径約25mの円墳・白旗塚古墳の周囲を整備した歴史公園。白旗塚古墳は5~6世紀築造と推定、周濠が復元され、都の史跡に指定されている。文化・文政期(1804-29)に編まれた新編武蔵風土記稿に、源義家が奥州征伐時に当地で白旗をなびかせ戦ったとの逸話が、白旗塚の名称の由来との記事がある。園内の桜もまさに見頃であった。白旗塚古墳を背景に集合写真を撮る。

3. 伊興寺町、常福寺と易行院
先程の交差点に戻り、尾竹橋通りを渡った先の路地を西に入れば伊興寺町がある。足立区東伊興一帯は震災や戦災を契機に、浅草など東京下町から移転した寺院が集まり、伊興寺町と通称されている。
石畳の路地を西に進めば、佛名山常福寺、浄土真宗大谷派の寺院がある。建保4年(1216) 常陸国那珂郡に創建、慶長元年(1656)浅草に移転。震災後、本堂と墓地、戦災後全施設が当地に移転した。境内の桜が美しい。墓地の入口に、海老名家・先代林家三平の墓所があり、お参りする。
すぐ北側に易行院、山号は日照山、浄土宗の寺院がある。文亀年間(1501-03)浅草に創建、震災後の昭和3年(1928)当地 に移転。入るとすぐに歌舞伎の主役・助六の塚がある。当院の文化年間(1804-18)の過去帳に、俗名・戸沢助六の記事があるという。また、当院は先代・三遊亭圓楽の実家で彼の生前墓だった墓がある。ともにお参りする。著名落語家の墓所が隣接するのも珍しい。


4. 伊興遺跡公園~淵の宮氷川神社
伊興寺町の西端を北上すれば、すぐに伊興遺跡公園がある。淵の宮氷川神社を北限として南北660m、東西690mの広がりを有する縄文~平安時代に至る、区内最大級の複合遺跡・伊興遺跡の一部を整備した歴史公園。園内の弥生時代の方形周溝墓、復原竪穴式住居などが復元・展示され順次見学。次いで縄文~古墳時代の出土品などを展示している展示館を見学する。
公園北側の通りを西に向えば、すぐ北側に淵の宮氷川神社が鎮座している。別称・伊興氷川神社。創建年代は不詳だが、江戸初期に鷹場などがあり、幕府の直轄地であった渕江領では最古の氷川神社で、渕江領内の総鎮守として崇敬されてきた。当地は古来、水運の要地であったという。後に南足立郡伊興村・竹塚村・保木間村の鎮守社となった。


5.まるか家~入谷氷川神社
淵の宮氷川神社から南下し、西進すれば徒歩5分程の所に蕎麦店・まるか屋がある。昔ながらの街の蕎麦店だ。お品書きのイベリコせいろが気になった。聞けばイベリコ豚で出汁を取った汁に冷や蕎麦を漬けて食すという。珍しいが旨そうな組合わせだ。たのんで見れば汁が成程旨い。今日の天気に合った一品だ。
そこからバスで入谷氷川神社へ向かう予定だったが、道を間違え乗り遅れる。たまたま通りがかったタクシーに乗り、入谷氷川神社と告げると「ここらは氷川神社だらけでねえ」といま一つの様子。「舎人団地南バス停の側」と言うと、すぐに了解。入谷氷川神社付近で下車する。
入谷氷川神社は創建年代は不詳だが、豊臣秀吉の関東攻めの時に白幡を立てたことから白幡八幡と呼ばれ、新編武蔵風土記稿にも八幡社と記載されている。明治初年に現社名に変更。長い参道の先の社殿は、伊興古墳群に属する径約24mの円墳・入谷古墳上に鎮座。入谷古墳の築造年代は不詳、別称・白幡塚古墳、東伊興の白旗塚史跡公園の園内古墳とは異字同音、石碑・案内板には「入谷古墳跡」と表記、区の史跡に指定されている。


6.舎人橋~日暮里・舎人ライナー
入谷氷川神社から住宅地を概ね北に徒歩10分余、東京都と埼玉県の境、東西に流れる毛長川と、埼玉県行田市から東京都足立区まで南北に流れる見沼代用水の交点・舎人橋。見沼代用水は足立区内では本来の役目を終え、見沼代親水公園内の流路となっている。毛長川の南岸には舎人緑道公園の桜並木が続き、見沼代用水・埼玉側にも桜並木がある。桜並木の交点でもあるのだ。
舎人橋から南東に10分程歩くと舎人氷川神社が鎮座。今日三座目の氷川神社、タクシー運転手さんの言葉に納得。正治2年(1200)創建と伝わる古社だ。東に数分、北に数分歩くと日暮里・舎人ライナー・見沼代親水公園駅がある。
日暮里・舎人ライナーは、足立区内の鉄道空白地を解消するため、東京都交通局が平成20年(2008)開業した日暮里駅~見沼代親水公園を結ぶ新交通システム・案内軌条式鉄道である。無人運転のため最前部にも座席がある。ホームで待っていると日暮里駅行が入線。始発駅の優位性で最前席を確保した。


7.舎人公園
見沼代親水公園駅から2つ目、舎人公園駅で下車する。舎人公園は、昭和15年(1940)に設置が決定された防空緑地の用地を、戦後、公共公園として整備、昭和56年(1981)の一部開園以降、整備拡大を続けている都立の総合公園。現状、面積・約51万平米。各種のスポーツ施設とともに、桜の名所としても知られ、毎年花見の時期には「舎人公園 千本桜まつり」が開催されている。2019年は4月6日(土)~7日(日)に開催。当日、9日も桜は見頃であった。園内を散策、園内中央のお花見広場の桜の下のベンチでしばし桜を眺めつつ憩う。
次いで、園内南西のレーガン桜へ。明治45年(1912)に日本が米国に寄贈したソメイヨシノがワシントンのポトマック河畔に植栽され、世界的に有名になった。その後、レーガン大統領夫人が来日した際に贈られた里帰り桜が舎人公園に植樹され、レーガン桜と命名。桜の傍らに経緯を刻した桜植樹記念碑が立つ。
舎人公園駅から日暮里・舎人ライナーで約10分、熊野前駅へ。ここで都電荒川線早稲田駅行に乗換え約10分、荒川遊園駅で下車。線路沿いを西に進み、最初の信号で南下、徒歩約10分の尾久駅に向かう。


8.尾久駅~新橋 鴻運新店
尾久駅は昭和4年(1929)に東北本線の駅として開業。現状は宇都宮線・高崎線の上野駅発着と上野東京ラインのみ停まる。利用者数は日約9,500n人/日、都内のJR駅で下から第3位という、地味な駅である。ここから、上野東京ラインに乗り20分余、7つ目の新橋駅で17時10分頃下車する。
新橋駅日比谷口、SL広場を西に歩き、ヤマダ電機南側の通りを西に向かう。鴻運はネット上に本店と新店が併記され、前回利用した本店を予約したが、ストリートビューで確認したら、本店は見あたらない。念のため新店の位置も確認しておいた。行って見れば本店は無く、新店の予約はOKだった。
いよいよ食事会、まず名物ナスの天プラ、飲み物は紹興酒ロック。次いで、マコモ炒め、蒸し鶏、本店の上海家庭料理の味はしっかり継承されていた。焼餃子に続き、豆腐料理のメニューを見れば、大阪豆腐とある。店員さんに訊いたら由来は不詳とのこと。食して見れば辛味のないあんかけ豆腐。大阪との関連は不明だったが、結構な味であった。宴が続き、やがて皆、帰路に就いた。


所 感
今回2度目の訪問となった所が2ヶ所ある。1つは見沼代親水公園駅付近だ。第10回・2012年9月23日(日) 、東京23区東端~北端、水の史跡をめぐる、と銘打って、東京23区の北端、見沼代親水易公園付近の毛長川北側に張出した足立区舎人4丁目と、埼玉県川口市の境の路地から、水の史跡としての舎人親水公園を巡った。今回は桜がテーマで2座の氷川神社を巡ったこともあり、舎人橋~舎人氷川神社~見沼代親水公園駅のルートを巡った。
前回、2013年9月28日(土)食事会の会場は鴻運本店。今回は鴻運新店なので厳密には2度目で無いかもしれない。ただ、店の雰囲気や味わいもしっかり継承されていた。この点では2度目と言っていいだろう。惜しむらくは本店奥にあった7~8人が使える円卓が無くなったこと。前回の食事会では、ここを利用し、和気あいあいとした宴が楽しめた。 (幹事・柳沢記)
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